片翼の召喚士 ep.79 ベルトルドの退院劇

chapter-5.初恋の予感編
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片翼の召喚士 ep.79 ベルトルドの退院劇

 キュッリッキは目を覚ますと、アルカネットがベッドにも部屋にもいないことに首をかしげた。出仕する時間にはまだ早すぎる。

「アタシより早起きだもんね、アルカネットさん」

 目を覚ますと、いつも横で優しく微笑みながらアルカネットが見ている。さすがに最初の頃はびっくりしたが、最近では慣れてしまっていた。なので毎朝の恒例行事がないと、妙な違和感を覚えてしまう。そしてその違和感を感じる自分に、少し憮然となるキュッリッキだった。

 暫く考え込み、今日はベルトルドが帰ってくるので、明日は休みをとったと、寝る前に話していたことを思い出す。

 キュッリッキはゆっくりと身体を起こして、小さくアクビをした。

「フェンリル」

 長椅子で寝ている相棒の名を呼ぶ。フェンリルは目を開けてすぐ起き上がると、ベッドに駆けてキュッリッキの膝に飛び乗った。

 フェンリルの背を優しく撫でながら、キュッリッキはくすくすと笑う。

「ベルトルドさん今日帰ってくるんだって。また賑やかになっちゃうね」

 やれやれといった顔で、フェンリルは目を細めた。

 あの2人の人間は、キュッリッキを巡って何かと五月蝿い。毎日飽きもせず、朝晩取り合い騒ぎ立てる。騒々しさこの上ない日々が、今日には戻ってくるという。それを思うと、フェンリルはため息が出る思いだ。

 キュッリッキを大切にしてくれているのは、見ていて判る。しかし、どうも度が過ぎる愛情を押し付けているように見えるのは、気のせいだろうか。

 そんなフェンリルとは違い、キュッリッキはベルトルドが帰ってくるのが、心の底から嬉しかった。今ではとても、大事な人だから。

「ベルトルドさんが倒れちゃった原因は、アタシのせいなの。毎晩、毎晩、泣き喚いて、騒いで…。そのせいで寝られなくって、お仕事で疲れてるのに無理させちゃってた。だから身体壊しちゃったんだよね」

 辛い気持ちや悲しい想いを、全て受け止めてくれた。今まで誰も感じてくれなかった心の声に、耳を傾けてくれた。嫌がらず、いつも優しい笑顔で。愛していると言いながら、慰めてくれた。

 アルカネットも同じようにしてくれるが、ベルトルドのほうがもっと熱心だと、キュッリッキは感じていた。ベルトルドの想いの方が、強く心に染み込んでくるからだ。

「ベルトルドさんが帰ってきたらね、どうしてもお礼がしたいの」

 フェンリルはキュッリッキを見上げると、どんな? と喉を鳴らす。

「アタシをこんなに幸せな気持ちにしてくれて、贅沢もいっぱいさせてくれて。アタシなんかじゃ大したお礼もできないけど、でもね、一つだけ、喜んで貰えそうなお礼があるの」

 キュッリッキは神妙に眉間を寄せると、

「うまくできるか判らないけど、それしか思いつかないから。…頑張るの」

 ちょっと困ったように笑う。フェンリルは眉間に縦ジワを刻んで、わからん、といった顔で鼻息をつくと、前脚に顎を載せた。

「早く帰ってこないかなあ」

 テーブルに置かれた時計に目を向けると、針は午前7時を指そうとしていた。

「アルカネット様」

 食堂へ向かおうとして、廊下を歩いていると呼び止められた。振り返ると困った表情のリトヴァが、横の通路から歩いてくるところだった。リトヴァの表情から察して、悪い予感がアルカネットの心に突き刺さる。

「どうしました?」

「それが……」

 シワの刻まれた顔に片手をあて、リトヴァはため息をひとつつく。

「旦那様がすでに病院を発たれて、こちらに到着するのは、もう間もなくだそうです。いま病院からご連絡が…」

「…………」

 笑みを絶やさないアルカネットの頬が、微妙にひきつった。ベルトルドのドヤ顔が、脳裏を一瞬で過ぎっていく。

 正午くらいに帰宅の予定になっていた。そのつもりで主の帰宅に備えて、使用人たちは準備をしている。

 退院前には診察もあるし、第一この時間では主治医が出勤してないだろうに。

「全く子供じみたかたですね…。向かっているなら仕方ありません。ついでにベルトルド様もヴィヒトリ先生に診ていただきましょうか」

 アルカネットとリトヴァは、同時に深々とため息をついた。

 美味しくもない病人食を、毎日3食きっちり決まった時間に出され、毎日決まった時間に診察があり、毎日決まった時間に起床と消灯。

 ”毎日”と”決まった”と”時間”の三拍子に束縛され、更に愛しい少女と会えない辛さを乗り越え、ベルトルドはついに監獄という名の病院から帰ってきた。

 我が家へと!

「いま帰ったぞ!!」

 ご機嫌で玄関の扉をバンッと開けると、誰ひとり玄関ホールにはいなかった。

 あれ?という表情で辺りを見回していると、正面の階段からルーファスが眠そうにアクビをしながら降りてきた。

「ん? アレ、ベルトルド様、なんでいるんですか?」

 開けっ放しの玄関扉の前で、腕を組み憮然と佇むベルトルドを見つけて、ルーファスは小走りに駆け寄った。

「なんか昼頃帰ってくるって聞いてましたから、早かったっすね~」

 そんなルーファスをたっぷりと無言で睨みつけると、さも不愉快そうにベルトルドは鼻息をついた。

「出迎えはいない、欠伸した寝ぼけ面のお前に真っ先に会う、主が帰ってきたというのになんだ、使用人どもは!」

 憤懣やるかたない、といった体である。帰ってきて「おかえりなさいませ」がナイのも心が寒い。

「あなたが予定時間より、ずっと早く帰ってくるからですよ」

 ため息をつきながら、奥からアルカネットが姿を現した。

「おかえりなさいませ。セヴェリはどうしたんですか?」

「おう。退院手続きとか帰り支度とか色々あるから、まだ病院だろう」

 素っ気なく答えるベルトルドを見て、アルカネットは露骨にため息を吐き出した。置いてきたのか、と目で責める。

「判りました。では、部屋へ行きましょうか。すぐ寝られるように、整えてありますから」

「俺はもう病人じゃないぞ」

「診察も受けずに帰ってきたひとが、何を言っているんですか。医者からの診断が下るまでは、おとなしくベッドで寝ていてください」

「ヤだ! 俺はリッキーの部屋へ行く!!」

「ダメですよ。今は入浴中ですし、身支度が整ったら診察時間です」

「別に俺が部屋にいたって、不都合なんかあるわけなかろう」

「いや、不都合ありまくりですって……」

 ルーファスがぼそりとツッコむと、ベルトルドからギッと睨まれルーファスは首をすくめた。

「ルーファスの言うとおりです。とにかくおとなしく部屋へ行きましょうか」

「だが断る!」

 ふんぞり返って我が儘を言うベルトルドに、アルカネットのこめかみに青筋が走る。

「ルーファス」

「イエッサー」

「何をするお前ら!?」

 能面のように無表情なアルカネットと、なるべく目を合わせないようにするルーファスに、両腕をガッシリ掴まれたベルトルドは、ジタバタと抵抗も虚しく引きずられながら自室へ連行されてしまった。

 怪我の具合を丹念に診て、ヴィヒトリはカルテにささっと書き込んだ。術後の傷跡はいまだ生々しく残っているが、具合はだいぶいい。

「右腕や右手の動きに、違和感はないかい?」

「ずっと動かしてなかったから、力が入りにくくて鈍いけど、大丈夫みたい」

「うん」

 ゆっくりと手を握り、開いてまた握る。腕を上げ下げし、ぐるんと回そうとしてキュッリッキは「つっ」と表情を歪めた。

「肩のあたりがちょっと痛い、かも。振り回さなきゃ平気だけど」

「内部のほうが、まだ少し治りが遅いか」

 ヴィヒトリはほっそりとしたキュッリッキの肩や腕を触って、状態を確かめた。触診で判る範囲では、問題はなさそうだった。

「一度病院で、精密検査をしようか。こういうのはしっかりと治しておかないと、後々面倒になるからね」

「はい」

「ベルトルド様に話しておくよ。このあと診なくちゃならないんだ」

「まだ病院にいるのね、ベルトルドさん」

「いや、とっくに帰ってきてるって」

「え?」

 帰宅するのは昼頃と聞かされていたので、キュッリッキは驚いた。

 第一とっくに帰ってきているということは、ならなぜ真っ先にここへやってこないのだろう? という疑問が頭をもたげる。ベルトルドのことだから、飛んでくると思っていたのだが。

「アルカネットさんに玄関で捕まって、自室に連行され監禁されたってさ。退院手続きも診察も済ませる前に、勝手に病院抜け出してきたもんだから」

 あははっとヴィヒトリは愉快げに笑う。それに対しキュッリッキは、口の端を引きつらせるだけだった。

「出勤前にキミとベルトルド様のダブル診察とか、めんどくさー」

 カルテに必要なことを書き込んだあと、ヴィヒトリは両腕を上にあげて伸びをした。

「さて、今日の診察終わりっ」

「ありがとうございました」

「はいよ」

「あ、先生、アタシも一緒に、ベルトルドさんの部屋へ行ってもいい?」

 萎えた右手を苦労して動かしながら、寝間着のボタンをはめる。これもリハビリの一つだが、右手に力が入らず苦戦した。

「別にかまわないけど、ボク非力だから、メルヴィン呼んでくる」

「う…ん」

 メルヴィンの名が出され、キュッリッキはドキリと緊張で顔を赤らめた。

 以前は何も感じなかったのに、この頃メルヴィンに身体に触れられると、恥ずかしさのあまり意識が真っ白になりそうになる。

 別にいやらしい意味ではなく、まだ満足に自力歩行出来ないため、移動するときは抱き上げてくれるのだ。とても助かるが、緊張を伴い、心臓がバクバクと早くなって困ってしまう。

 これは医者には治せない病気らしく、薬すらないという。とんでもない難病を患ってしまったらしい。

(どうやったら治るのかな……)

 神妙に考え込んでいると、至近距離にメルヴィンの顔があって、キュッリッキはそれに気づいて瞬時に顔を真っ赤にすると、無言でそのままひっくり返ってしまった。

「あれ、リッキーさん!?」

 慌てるメルヴィンとひっくり返ったキュッリッキを交互に見て、ヴィヒトリは「やれやれ」と首を振って肩をすくめた。

 アルカネットとルーファスの共同作業でベッドに押し込まれたベルトルドは、盛大に口をヘの字に曲げて腕を組んでいた。

「これでは病院に居るのと変わらん!」

「薬品臭や計器の音がしないだけ、はるかにマシじゃないですか。やれ臭いだの煩いだのと、文句たらたらだったでしょう」

「俺はありのままの事実を言ったまでだ。ガキじゃあるまいし、文句たらたらとは心外だ」

「はいはい。とにかく黙っておとなしく、じっと寝ていなさい」

(この2人のやり取りは、本当に見てて一番楽しい……)

 ルーファスはそっぽを向いたまま、心の中でしみじみ呟いた。41歳のオッサン同士が、母子のような会話をしているのだ。

 やがてノックがして、ヴィヒトリが顔を見せた。

「おはようございまーす、ベルトルド様の診察も、ついでにきました」

「どうもすみません、先生」

 気づいてアルカネットが出迎える。

「おや、リッキーさんもいらしてたんですね」

 メルヴィンに抱きかかえられ、茹蛸のような真っ赤な顔でキュッリッキは頷いた。

「なに、リッキーがきているだと!」

 メルヴィンが室内に入ると、ベッドの上で身を乗り出したベルトルドが、笑顔を向けていた。

「おいで、リッキー」

 ベルトルドは両腕をキュッリッキのほうへ伸ばす。すると、メルヴィンの腕の中からふわりと身体が浮いて、ベルトルドに引き寄せられて、伸べられた腕の中にすとんとおさまった。

「リッキー、会いたかったぞ」

 サイ《超能力》でメルヴィンから奪い取ったキュッリッキを、ベルトルドはたまらずぎゅっと抱きしめた。ほっそりと柔らかな少女の身体の感触が手に久しい。

 1週間も愛でられなかった為、ベルトルドの腕にはつい力がこもってしまい、次第に苦しがるキュッリッキの反応にも気づかず、自分の世界に入り込んでいった。

 キュッリッキの方はというと、いきなりのことに目を白黒させた。それに、メルヴィンから引き離されたことに、ムッとした感情が沸く。そこへ力いっぱい抱きしめられ、身体が痛くて苦しくなり、逃れようと身をよじった。

「ベルトルドさまー」

 キュッリッキの様子に気づいたルーファスが耳元で叫ぶが、ベルトルドは幸せそうに目を閉じ浸っている。

「どきなさいルーファス、こういうときは、こうするのです!」

 アルカネットは重厚なブロンズ製の馬の像を手にし、それを力いっぱいベルトルドの脳天に振り下ろした。

「だっ!」

 目から火花が散るほどの衝撃を受けて、ベルトルドは唸り声を上げた。

(あーらら、縫わなきゃダメかなあ……)

 片手で頭を押さえて悶絶するベルトルドを見ながら、ヴィヒトリは目を細めて心の中で嫌そうに呟いた。出勤前にどれだけ手間が増えるんだろうかと。

 もう片方の手はキュッリッキの身体をしっかりと離さず、目に涙をにじませてアルカネットを睨みつけた。

「お前は俺を殺す気か!!」

「死ねばいいんですよ」

 辺りに冷気が立ち込めそうなほど、殺伐とした表情でベルトルドを見下ろす。そんなアルカネットの行動に、ルーファスとメルヴィンは内心一歩退いた。思っていても出来ないことを実行してしまうところが、相変わらず容赦なかった。キュッリッキも驚いて大きく目を見張ったまま硬直している。

「せっかく退院してきたのに、また病院に送られたらどうするんだ! お前の辞書には手加減と労りの文字は書いてないのか!!」

「私の辞書はあたな以外の相手には、適用されるように出来ているんです。その汚らわしい手をどけて、リッキーさんを解放してください。可哀想に、あなたに絞め殺されるところだったんですから」

「ん? ああ……」

 膝の上で硬直しているキュッリッキに、ベルトルドは苦笑を滲ませ笑いかけた。

「すまんリッキー。嬉しさのあまり、我を忘れて力が入り過ぎていたようだな。痛かったか?」

 ベルトルドの笑みに安堵し、キュッリッキは相好を崩して、

「ちょっと痛かったかも」

 と答える。

 ベルトルドは「そうか」と微笑んで、キュッリッキの頬を優しく撫でた。

 元気そうな様子に、キュッリッキはやっとひと安心した。病院でベッドに横たわっていたベルトルドは、熱を出してとても苦しそうだったのだ。あの苦しそうな表情は、今は欠片も感じられない。こうしてベッドにいるが、もう大丈夫そうだ。

「おかえりなさい、ベルトルドさん」

 タイミングがちょっとズレているが、にっこりと言うキュッリッキの顔を見て、ベルトルドは再びキュッリッキを抱きしめた。今度はそっと、優しく。

「1週間も会えなくて辛かった。――また少し痩せたんじゃないのか? 一回り軽くなった気がするぞ」

 もともと軽すぎる少女の身体は、1週間前よりもさらに軽くなっている。食事はちゃんと摂っていたのかと不安になった。

「さて、そろそろあなたも診てもらってください。診察も受けずに、勝手に病院を抜け出してきたんですから」

 冷ややかに言うアルカネットを、ベルトルドはじろりと横目で睨む。しかし今度は口答えせず、そっとキュッリッキから身体を離した。

「ヴィヒトリ先生がお待ちです。――先生」

 アルカネットに声をかけられたヴィヒトリは、急に話題を振られて軽く肩をすくめた。すでに診察は完了している。今更問診も触診も必要ないほど、ベルトルドは元気だ。

「そうですね、あと1週間はお屋敷でのんびりしていてください。四六時中寝ていなくてもいいですが、昼寝したり、ひなたぼっこしたり、とにかくのんびりお過ごしを」

「俺は老人か……」

「そのくらいゆとりある時間を過ごせば、何をしていても構いませんよ。それより、さっき殴られた頭部が、一番気になって仕方がないんですが」

「おう、大丈夫だろう。いつものことで慣れてるからな」

「………」

 ヴィヒトリはちらりとアルカネットを見たが、涼しい顔でスルーされた。

「ベルトルド様の主治医へは、ボクのほうから説明しておきます。たぶんあの人のことだから、一度お屋敷に診にくるでしょうけど」

 エリート思考の強い先輩医師を、頭に思い浮かべる。副宰相の主治医になれて、鼻息荒く得意げになっていたから、黙って病院を飛び出されて、さぞ顔を真っ赤にしているだろう。

「申し訳ありません。あとでお詫びに、病院へ伺わせていただきます」

 アルカネットは深々と頭を下げた。これには黙って頷く。

「ほんとに大丈夫なの? ベルトルドさん」

 アルカネットに殴られた頭部に目を向けて、キュッリッキが心配そうに言うと、ベルトルドはわざとらしく拗ねたような表情を浮かべる。

「酷い奴だよな、アルカネットは。遠慮のかけらもない無慈悲な一撃を、退院直後の俺に見舞うんだから」

 くすん、とベソをかいてみせる。

「鉄でできた頭皮ですから、問題ありません」

「俺はゴーレムか」

「あーそれから……」

「なんだ?」

 ヴィヒトリは割って入ると、ベルトルドとアルカネットに軽く睨まれて首をすくめた。

「えーっと…、キュッリッキちゃんの精密検査をしたいんで、一日入院に許可をいただければと」

 ふむ、と頷くと、ベルトルドはすぐに了承した。

「リッキーの治療はお前に一任してある。いいようにやってくれ。手配はアルカネット、任せたぞ」

「承りました」

 膝の上に座るキュッリッキに優しく微笑みかけると、ベルトルドは愛しい少女の両手をとった。

「ちゃんと治しておかないとな」

「はい」

 ベルトルドの大きな手を見つめながら、キュッリッキはふと大事なことを思い出した。

「ベルトルドさんあのね、その……」

「うん?」

「ちょっとだけ、目を閉じてもらってもいい?」

「? ああ……こうか?」

 ベルトルドは僅かに首をかしげながらも、言われた通りに目を閉じる。

 アルカネットたちも、不思議そうに2人を見ていた。

(よ、よし、頑張っちゃうんだからっ)

 ドキドキする鼓動を煩わしく思いつつ、キュッリッキは意を決して実行に移した。

(えいっ!)

「ああああああ!!!」

 アルカネットとメルヴィンの絶叫がとどろき、ルーファスとヴィヒトリは面白そうに目を見張った。

 それは、キスと呼ぶにはあまりにも幼く、唇を押し付けただけの行為にしか見えなかった。しかしキスをすることに慣れていないキュッリッキにとっては、これが精一杯だ。

 キュッリッキのこの突拍子もない行動に、アルカネットが悲鳴にも近い声で喚いた。

「リッキーさん一体どうしたんですか! 気でも狂れましたか!」

 ベッドに両手をついて身を乗り出してくるアルカネットに、キュッリッキは困ったような笑みを向けた。

「えっとね、ベルトルドさんアタシのせいで入院までしちゃって、ゴメンナサイだし。それに、いつも大事にしてくれるから、なにかお礼がしたいかなって思ってて。ずっとアタシとキスしたがってたから、特別良いかな、なんて」

 肩をすぼませ上目遣いに言う。そんなキュッリッキに、アルカネットは激しく首を横に振ると、叱るように見つめた。

「この人が入院したのは自業自得ですよ。リッキーさんのせいじゃないんです! こんな汚らわしいオッサンの口にキスなんかしたりして、ヘンな病気でも感染ったらどうするんですか!」

(酷い言われよう……)

 ヴィヒトリは笑いを噛み殺しながら、心の中で呟く。

 メルヴィンもなにか言いたそうな顔をしていたが、複雑な色を浮かべたまま無言でいた。

 当のベルトルドは、ぽかんとした表情で硬直していた。周りの声は聞こえていないかのようである。

(リッキーが…、リッキーが…、俺にキスを……俺に…)

 めくるめくような、甘く甘く、切ないほどの衝動が、全身を包み込み――

「きゃっ」

 突然キュッリッキは両腕を掴まれ、ベッドに押し倒された。

 一瞬閉じていた目を開くと、ベルトルドが馬乗りになって、鬼気迫る顔で見下ろしていた。

 キュッリッキは怯えたように、ベルトルドを見上げた。こんなギラギラした表情は見たことがなかったので、とにかく怖かった。

(むしゃむしゃ食べられちゃいそう)

「いい加減にしろや」

 怒りをにじませた低い声と、渾身のゲンコツがベルトルドの後頭部に炸裂する。アルカネットはベルトルドの襟首を掴んで、キュッリッキから引き剥がした。

「自制せい」

「――危なかった、止められなきゃホントに襲っていたぞ」

 我に返ったような表情で、ベルトルドは危ない、危ないと繰り返した。意図的にではなく、ほぼ衝動的に襲う寸前だった。

 目を閉じたあと、顔になにかが近づく気配がした。やがて唇に柔らかな感触がして、ハッと目を開けると、必死な面持ちのキュッリッキにキスされていた。

 驚くまもなく理性が吹っ飛んで、アルカネットが止めなければどうしていたんだろうと内心焦る。それと同時に、キュッリッキからキスをしてきたという事実が、ベルトルドの心を、喜びでジワジワと満たしていった。

 一息ついたキュッリッキは、身体を起こそうとして左手を動かすと、なにかに当たって枕の下に手を入れた。

「なんだろう…?」

 手に当たった何かをゴソゴソと引っ張り出し、それを見たキュッリッキの眉が、瞬時に不快げに寄せられた。

「どうしたリッ…あ」

 キュッリッキが手にしているものを目にし、ベルトルドの顔が引きつった。

(ゲッ…やべっ)

 それを見て、ルーファスが焦りの表情を浮かべる。

「リッキーそれはだな」

「なんでこんなモノが、枕の下にあるの、かな」

「俺も知らん!」

 身に覚えがなさすぎて、ベルトルドは悲鳴を上げる。

 緊急事態を察知して、ルーファスはこっそり部屋を出ようとした。しかし目ざとくベルトルドに見つかって、サイ《超能力》でガッチリ足を止められてしまった。顔面から思いっきり床に倒れこむ。

「こら青二才! どういうことか説明してもらおうか!!」

 火でも噴きそうな剣幕のベルトルドに、ルーファスは泣き喚きながら答える。

「すすすすすいませんっ!! 棚にしまおうとしたらカギかかってて、咄嗟に枕の下に隠しましたっ!」

「勝手に俺のコレクションを見るな馬鹿野郎」

「暇つぶしにイイモン見つけたなーっと。いやあ~、なかなかオイシイですよねえその雑誌」

「当たり前だ、普通に流通していない未修正豪華版で高いんだぞ」

「へー……コレクション」

 思わず得意げになって言っていると、冷ややかな声がベルトルドを現実に引き戻した。キュッリッキの軽蔑を滲ませた目が痛い。

「いや、リッキー、これはだな…」

「ベルトルドさんのスケベぇ!!」

 キュッリッキは手にしていた未修正豪華版のアダルト雑誌を、思いっきりベルトルドの顔面に投げつけた。

 至近距離のナイスコントロールで、雑誌は見事ベルトルドの顔面にストライク。

 顔に炸裂した衝撃に、ベルトルドは思わずのけぞった。雑誌のぶつかった箇所が赤くなる。

「部屋へ戻りましょうか、リッキーさん」

 メルヴィンはキュッリッキを素早く抱き上げると、冷ややかな一瞥をベルトルドにくれて、キュッリッキを連れて部屋を出て行ってしまった。

 ルーファスもそそくさ後に続こうとするが、

「貴様!!」

「わああああごめんなさーーーーい!!!」

 ベルトルドに飛びかかられたルーファスは、喉を締め上げられ、ギブアップを訴え床を叩いた。

 大の男のしょうもない姿を眺めながら、アルカネットは疲れたように溜息を吐きだした。

 ベルトルドは十分元気だった。

 ルーファスを散々締め上げたあと、文字通り部屋から叩き出した。

「ったく、エロ本をお約束過ぎるところに隠しおって。リッキーにバレてしまったではないか」

「エロ本なんか買ってるほうが悪いのですよ」

「ぬぅ…」

「それよりも、例の計画、明日から実行なさいますか?」

「うん。あとでカーティスには伝える」

「今年の夏は、騒がしくなりますね」

「賑やかになっていいだろう」

 ベルトルドはベッドに腰を下ろして、にっこりと笑った。