片翼の召喚士 ep.75 アルカネットの嫉妬
屋敷の主であるベルトルドは入院中、もう一人の主人であり執事でもあるアルカネットは。日中は軍に出仕していて留守。そして執事代理をしているセヴェリは、ベルトルドに付き添って病院で寝泊り。
かくして屋敷の全てを一手に仕切っているリトヴァは、帰宅したアルカネットにその日の報告をするのが、日課に加わっていた。
報告は、出迎えた玄関から、アルカネットの部屋まで歩きながら行われた。
一連の業務連絡から始まり、いくつかの指示のやり取り、朝食の献立などの打ち合わせを経て、キュッリッキの外出の話になると、アルカネットの表情が一変した。
「リッキーさんが見舞いへ…?」
驚いたように目を見張るアルカネットに、リトヴァはにこやかに答える。
「ずっと旦那様を心配しておられましたから、主治医のヴィヒトリ様のご許可を得ての外出でございました。久しぶりの外出でお疲れになり、今はもう、おやすみになっておられます」
全ての報告を終えて、リトヴァは軽く会釈をした。アルカネットは難しい表情をして、リトヴァから視線を外らせる。
「まだ回復していない身体で、病院まで出かけたのですか…」
あまり表情を崩さないアルカネットにしては珍しく、眉間に鋭くシワを寄せて顎を引いた。
「判りました。お下がりなさい」
一礼すると、リトヴァは速やかに部屋を辞していった。
アルカネットの部屋は、ベルトルドの部屋の隣にある。キュッリッキが来てからは、着替えと風呂でしか使っていない。仕事を持ち帰った時は、ベルトルドの部屋か書斎を使っている。
青い天鵞絨張りの長椅子に黒い手袋を脱ぎ捨て、襟元のスカーフを緩める。
「いくら包帯が取れたといっても、まだまだ安静にしていなくてはならないのに。ベルトルド様の見舞いごときで、悪化でもしたら洒落になりません」
何とも言えない、ざわざわとしたものが心の中を席巻していく。苛立ちを覚え、マントを乱暴に脱ぎ捨てた。
怪我は完治しておらず、体力だって回復していない。気力もだいぶ萎えていて、出会った頃の元気さはなりを潜めている。
「毎日そばにいるので判りますが、他人を気遣い見舞うことのできる身体ではないのです。それなのに…」
主治医のヴィヒトリが許可を出したのなら、外出が出来るくらいには治っているのだろうが、無理をさせるにはまだ早い。
それを思うと苛立ちが激しくなり、温和な表情は完全に掻き消え、険しさが際立つ。
拳で激しく長椅子のヘリを叩きつけ、唾を吐き捨てた。
食事と入浴をすませてから、キュッリッキの部屋に入る。部屋の中は薄暗く、ベッドサイドのテーブルに置かれたランプが、ほんのりと点いているだけだった。
「アルカネットさん?」
ベッドから小さく声がかけられた。その声に、アルカネットは表情を和ませる。
「ただいま、リッキーさん。眠っていなかったのですね」
優しい笑みを浮かべながら、アルカネットはベッドに腰を下ろして、キュッリッキの額へキスをする。
「さっき目が覚めちゃったの」
そうですか、と呟いて、キュッリッキの頭を優しく撫でた。
「無理に寝ようとしなくていいのですよ。無理をすれば、かえってストレスになってよくありませんから」
「うん。でもちゃんと寝ないと、朝起きれなかったら、みんなに心配かけちゃうし」
キュッリッキは僅かに首をすくめて苦笑する。
「アルカネットさんのお見送りも出来なくなっちゃう」
その言葉に、アルカネットはより一層笑みを深めて、キュッリッキの左手をとった。
「お気持ちだけで充分ですよ。ありがとうございます」
アルカネットの微笑につられるように、キュッリッキも微笑み返した。
「いつものお茶を用意しますね」
アルカネットは立ち上がると、フェンリルの寝ている長椅子のそばのテーブルに行って、小さなガラス瓶を手にとった。
「今日はベルトルド様のお見舞いのために、外へ出られたのでしょう。きっと、まだその時の疲れや興奮が、落ち着いていないのでしょうね」
「そうかもしれない…のかな」
自分では歩いたりしていないのになあ、とぽつりと呟く。メルヴィンが抱き抱えてくれたり、ゴンドラや車椅子で移動しただけだ。それを思い出すと、胸がちょっとドキッとした。
ベルトルドの病室では思わず泣いてしまって、そのあとのことは覚えていない。気がついたら、帰りのゴンドラの中だった。
たったそれだけのことで、こんなにも疲れてしまうことに気落ちする。怪我をしてから随分と体力がなくなり弱くなった。そんな自身に情けなさを感じてがっかりだ。
これまでずっと一人で生きてきた。だから弱気になってはいけない、不健康じゃ働けない、頼るより自分でなんとかする。それが信条だ。
なのに今はどうだろう。たくさんの人々に支えられ、優しくされて、甘えきった生活をしている。昔ハドリーが読んでくれた物語の中に出てくる、お姫様のような暮らしをしているのだ。
たくさん甘えていいと言ってくれる大人たちがいる。このように恵まれすぎる環境が、自分を弱くしてしまっているのだろうか。
「これを飲めば、自然と眠くなるでしょう」
思考を停止して、天蓋に向けていた視線をアルカネットに戻す。
温かな湯気をくゆらせるティーカップを持って、アルカネットはベッドに座った。
キュッリッキはゆっくりと上半身を起こすと、アルカネットの手に支えられながら枕にもたれた。
受け取ったカップは、透明なガラスのシンプルなもので、黄緑色の透明なお茶が入っている。レモンのような香りが、ふわりと湯気に混じっていた。
口に含むとミントのような爽やかさが鼻腔を突き抜けていき、ほんのりとした甘味と、レモンのような香りが口に優しい。
「美味しい」
「飲みやすくて気分も良いでしょう。疲れているときは、これが一番です」
にこりとアルカネットは笑う。
「気に病むことが、一番身体に障ります。無理をせず、治るに任せていればいいのですよ」
アルカネットは無理強いしてこない。キュッリッキの嫌がることも、苦手なことも強制してこない。どこまでも優しい。
優しくされることに慣れていないキュッリッキは、最初の頃はそれがとてもこそばゆくて、戸惑うことのほうが多かった。しかし今は、少しずつ素直に受け入れられるようになってきている。
ベルトルドと同じように、アルカネットのことも大好きだ。
カップの中身を空にすると、ぼんやりとしたような眠気が、少しずつ身体を支配していった。落としそうになったカップを、アルカネットは素早く受け取った。そしてサイドテーブルにカップを置くと、瞼を閉じかかるキュッリッキをそっと寝かせ直してやった。
完全にキュッリッキが眠ってしまうと、アルカネットは立ち上がり、ガウンを脱いでベッドに入った。
「だから! なんで!! 俺を起こさなかった!!!」
仰向けに寝たままの姿勢で、拳をベッドにボスボスっと叩きつける。その様子に顔色一つかえず、セヴェリは深く頭を下げた。
「リッキーがわざわざ俺のために見舞いにきてくれていたというのに、話も出来なかったとは。労ってやれなかったし、可哀想なことをした」
「とは言いましても、熱を出されていたんですから、しょうがないじゃありませんか」
ヴィヒトリが肩をすくめながらツッコむ。熱を出すほうが悪い、と言外に露骨に漂わせながら。
すまし顔のセヴェリと、呆れ顔のヴィヒトリを交互にみやり、ベルトルドは憤然と鼻息を吐き出した。
さきほど目を覚まし、キュッリッキが回復もまだの身体をおしてまで、健気に見舞いに訪れていた事実を聞かされて、たいそうご立腹状態だった。
いくら熱を出していたとはいえ、誰も起こしてくれなかった。当然のこととはいえ、そのことで機嫌を損ねている。拗ねまくりだ。
あまりの剣幕に、部屋付きの看護師が恐れおののいて、帰ろうとしていたヴィヒトリに泣きついてきた有様である。
今は離れ離れで会えない身――たった1週間だが――つもる話もあるし、とにかく会いたい。抱きしめてやりたい、頬ずりしたい。ああしたいこうしたいと、底の見えないほどの欲求で、ベルトルドは頭がどうにかなりそうだった。
無理をしてまで会いに来たということは、キュッリッキの頭の中はベルトルドのことでいっぱい。いっときでも離れ離れになっていることに、耐えられないほど寂しがっているのだ。
キュッリッキの愛は、もうベルトルドにしか向いていない!
(うむ、絶対そうにチガイナイ! 俺を案じ、俺を求め、俺が欲しくて濡らしているだろう!!)
ベルトルドは拳をグッと握り締め、天井をキリッと睨んだ。
(あの桜貝色の可憐な唇を、息が苦しくなるほど貪り、甘く甘く慰めてやりたい。ああ…早く、早く帰りたいぞっ)
ヴィヒトリは眼鏡をクイッと押し上げ、トリップしているベルトルドをじとーっと見つめた。
(絶対、よからぬ妄想に浸ってるんだろうなあ…。十中八九、キュッリッキちゃんオカズにされてる)
大当たりだ。
「ああ、それとだな、この鬱陶しいまでの花を撤去しろ。ただし、リッキーの持ってきたバラだけは、残しておけよ」
突如セヴェリに顔を向けて、ベルトルドは手をパタパタとさせた。
今すぐ切花店が開けるだけの、大量の花々に埋もれた部屋を嫌そうに一瞥して、ベルトルドは眉を顰めた。花の色々な香りがむせ返りすぎて、逆に気分が悪い。
毎日どこぞの貴婦人やら政治家やら商人からと、届けられる見舞いの花々である。
ベルトルドが入院した日と翌日は、ハーメンリンナの花屋すべての切花が売り切れるという事態だった。ハーメンリンナの数件の花屋だけでは足らず、イララクス中の花屋から、花が消えた日でもある。
皇都中の花がこの一室に集まっている状態なのだから、それは凄まじいほどの花の匂いだろう。入りきらなかった花もある。
セヴェリもこれにはさすがに辟易していたので、快く応じてさっそく作業に取り掛かった。
キュッリッキが持ってきたバラの花を見て、ベルトルドの表情が自然と和んだ。
無理をしてまで自分に会いに来たキュッリッキの真心を思うと、寝ていたことが心底悔やまれてならない。
(今頃どうしているだろうか。もう寝ているか、それともまだ起きているかな)
日中たっぷりと睡眠をとったせいで、目が冴え渡っているベルトルドだった。
肘枕をしてキュッリッキのほうへ身体を向けて、横になっているアルカネットは、緩慢な動作で、そっと彼女の頭を何度も何度も撫でていた。
(愛おしくて、仕方がありません)
だが、それ以上に心は苛立っていた。
ベルトルドの見舞いへ出かけたことを、アルカネットは快く思っていない。見舞いなどと大げさなことをしなくても、あと数日で戻ってくる。
(今はここにいないベルトルドなど気にせず、こうしてそばにいる私のことだけを見ていればいいものを)
キュッリッキに裏切られたような気分にずっと苛まれていた。胸のあたりがザワザワして落ち着かない。
頭を撫でる手は顔に移り、線の細い輪郭をなぞるようにして、頬をそっと指で掬うように触れる。
肉付きは薄いが、柔らかな感触だった。そして、薄い下唇を指先でなぞる。
(本当に、よく似ている)
キュッリッキを見つめる瞳に、急に寂寥感が漂い始めた。
(髪の色も、顔立ちも、華奢な身体も。違うのは、瞳の色だけ)
アルカネットは身体を起こすと、キュッリッキの上に被さった。
(誰にも渡さない、汚させない――ベルトルドにも)
アルカネットは表情を険しくさせると、感情の全てをぶつけるように、キュッリッキの唇を貪った。舌を無理やりねじ込むが、キュッリッキの舌は絡んでこなかった。
さきほど飲ませたお茶は、強力な睡眠薬だ。茶葉自体に睡眠作用の成分が含まれていて、市場には出回っていない品種改良で開発されたものだ。
心を開かせたあの日から、キュッリッキは夜になると、過去の記憶や辛い思い出を夢にみて、荒れる日々が続いた。そのことで精神的に疲れきっている。
睡眠薬を飲ませて、ゆっくりと休ませるべきだと主張するが、薬漬けに反対するベルトルドとは口論が絶えない。
「心に溜まり続けているものを吐き出させ、過去を受け入れていくしかないんだよ。封じ込め続けていれば、いつかリッキーは壊れてしまう」
ベルトルドはそう言うが、彼女の過去はあまりにも辛い。
もっともっと時間をかけて、ゆっくりと向き合えばいいのだ。怪我を治し、身体が回復したあとでも遅くはない。
それなのに荒療治をさせ続けた結果が、体力や気力の回復に歯止めをかけている。
ベルトルドが入院した日から、アルカネットは睡眠薬のお茶を飲ませ続けていた。キュッリッキはそれ自体が睡眠薬だとは知りもせず、毎晩飲んでいる。
今も薬の効果で眠りは深い。
アルカネットはそっと唇を離すと、上体を起こして馬乗りの姿勢になり、キュッリッキの寝間着の胸元のボタンを、ゆっくりと外し始めた。
両手で胸元を大きくはだけると、ほっそりした裸身が露わになる。
視線がすぐに吸い付いたのは、右肩から乳房の上まで無惨に残る傷痕だった。白い肌の中で、一際傷痕が目立つ。
ヴィヒトリともうひとりの医師によって処置された傷は、数ヶ月もすれば目立たなくなってくるだろうとのことだった。
見ているだけでも痛々しいその傷痕に、そっと指先で触れる。痛みはもう感じないのだろうか。それとも、まだ痛いのだろうか。
上体をかがめると、唇で傷痕に触れた。そして肩から乳房に向けて、舌先で傷痕をたどる。一旦動きを止め、膨らみの小さな乳房を掌で優しく愛撫し、再び舌を這わせた。
キュッリッキの身体から、ほんのりと甘い香りが立ちのぼる。香水などの香りではない、彼女自身が放つ匂いだ。
「こんなにも、優しく、甘やかな香りがするのですか…」
アルカネットはうっとりと呟くと、ふいに、抑え込めないほどの激しい衝動が、腹の底からこみ上げてきた。
「あなたは、私だけを見ていればいいのです。心も、身体も、何もかも全て、私のものなのですから」
それなのに、無理をしてベルトルドの見舞いに行った。許しがたい裏切りだ。
「お仕置きせねば、なりませんね…」
アルカネットは自身の上着のボタンを、もどかしげに荒々しく外す。そしてキュッリッキの寝間着の裾を、乱暴にたくしあげた。
ほっそりとした足があらわになり、ふくらはぎから太ももへと手を滑らせ、下着に手をかけた。その時、
「ぐっ!」
突如凄まじい激痛が頭に走り、アルカネットは額に手を当て呻き声をもらした。
(そこまでにしておけ、アルカネット!!)
ずしりと重く、脳裏に怒号が響く。苛烈なまでのその声に、アルカネットは口の端を軽く釣り上げ苦笑いする。
(………何故こんな時間に、あなたが起きているのですか)
(フンッ! 昼間寝すぎて眠れないだけだ)
病院にいるベルトルドの、サイ〈超能力〉による遠隔攻撃だ。無防備なところへの直撃である。そこへ追い打ちをかけるように、更に強く念話が叩き込まれ、あまりの痛みで額に汗がにじんだ。
普段温和な顔は苦悶で歪みながらも、皮肉な笑みを口の端にのせた。
(覗きとは趣味が悪いですね。いいところなんですから、邪魔しないでくださいな)
(戯言を言うな! 間一髪で阻止できて、俺は安堵しているんだぞ)
本当に眠れず暇を持て余していたベルトルドは、キュッリッキの様子を伺おうと自分の屋敷を透視していて、思わぬ現場を目撃してのことだった。
何も考えず、咄嗟に出た行動である。手加減は一切していない。直撃したアルカネットはさぞ痛いだろうと思うが、今回のことは許せる範囲を超えている。
(リッキーの衣服を整えてさっさと寝ろ! この強姦魔)
(愛し合っていただけです。強姦などと、人聞きの悪い)
不愉快そうに応じられ、ベルトルドは眉をしかめて念話の声を強めた。
(薬で眠らせておいて、好き勝手しているそれのドコが愛し合っているんだ馬鹿者!)
二度目の念動力攻撃が飛んできたが、これには防御魔法で対処して喰らわなかった。不意打ちじゃなければ、全て防御することは可能だ。
攻撃を防がれたことに、ベルトルドは忌々しげに舌打ちする。
2人が思念での攻防を巡らせていることにも気づかず、キュッリッキはよく眠っていた。その寝顔を見つめ、やがてアルカネットは小さくため息をついた。
このまま続けても、邪魔が入り続けるだけだろう。屋敷ごと吹っ飛ばしかねない。
横槍が入ってすっかり気が殺がれてしまったアルカネットは、キュッリッキの寝間着のボタンをかけなおし、自らの上着のボタンもかけ直した。
(あなたの邪魔が入ったことですし、もう寝ます。あなたもさっさと寝なさい)
(お前が寝るまでずっと監視しててやる)
(お好きにどうぞ。ああ…)
アルカネットはもう一度キュッリッキに被さると、透視しているベルトルドに見せつるように唇を重ねた。
脳裏にけたたましく怒号が飛ぶが、完璧に無視をする。
充分堪能したあと唇を離し、キュッリッキにぴったりと身を寄せて、横になり目を閉じた。
(ではおやすみなさい)
(………)
ベルトルドは拳を固く握り、ギリギリと歯ぎしりをした。
(俺のリッキーにどこまでもお前はああ!!)
しかしこの絶叫は、精神防御をしたアルカネットの耳には届いていなかった。