片翼の召喚士 ep.74 お見舞い

chapter-5.初恋の予感編
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片翼の召喚士 ep.74 お見舞い

 せっかく元気が出たと思った矢先に、ベルトルドの入院騒ぎで、キュッリッキの食欲は完全に失せてしまったようだった。

 夕食に付き添っていたメルヴィンは、無理に食事をすすめようとはせず、黙って様子を見守っていた。そこへノックがして、アルカネットとルーファスが姿を現した。

 メルヴィンは立ち上がり、椅子をアルカネットに譲る。

「ただいまリッキーさん。具合はいかがですか?」

 アルカネットの優しい声に、キュッリッキは今にも泣き出しそうな顔を向けた。

「ベルトルドさん入院したって、病気なの? 怪我をしたの? アタシ心配で」

 前のめりになるキュッリッキを、やんわりと押しとどめながら、アルカネットは一層優しく微笑んだ。

「仕事のしすぎで、ただの過労です。おとなしく寝ていれば治るものですよ。まあせっかくなので入院させました。そばにいると邪魔ですしね。そんなに心配することはないのですよ、本人は呆れるくらい元気ですから」

 柔らかな笑みを浮かべるアルカネットの顔を見て、キュッリッキは僅かに肩の力を抜いた。一部の単語にアルカネットの本音が垣間見え、メルヴィンとルーファスは口の端を引きつらせた。

 それでもまだ不安そうなキュッリッキの様子に、アルカネットは立ち上がり、ベッドに座り直した。そしてキュッリッキをそっと抱き寄せる。

「本当に大丈夫ですから、安心してください」

 優しく、そっと頭を撫でてやる。キュッリッキは頷いて、アルカネットに身をあずけた。

 アルカネットは微動だにしないメルヴィンとルーファスを振り返る。

「こちらはもういいですよ。おさがりなさい」

「はい。では失礼します。リッキーさん、おやすみなさい」

「また明日ね、キューリちゃん」

「おやすみ、メルヴィン、ルーさん」

 キュッリッキのぎこちない笑みに見送られながら、2人は部屋をあとにした。

 遅くなった夕食をとりに食堂へ向かうあいだ、2人はなんとなく黙ったままだった。とくに会話もなく食堂へ着き、ルーファスは大仰な溜息とともに、だらしなく椅子に座って天井を仰いだ。

「アルカネットさんと2人だけってゆーのは、胃に悪いなあ~~。ちょー疲れた」

 弛緩しきったその様子に、メルヴィンは肩をすくめて苦笑を返す。

 テーブルには2人しかついていない。数名の給仕たちがまめまめしく、2人に料理の皿を差し出していた。メルヴィンもルーファスも、適当に自分の更に取り分けていく。

「そんなに長時間一緒だったわけじゃないけどさ、何かこう、ジワジワ~っと神経を蝕んでいくような、腹の底が重くなるような緊張があってさあ……」

「判らなくもありません」

 アルカネットは普段あまり、本音を表情にも態度にも出さない。常時にこやかな笑顔と穏やかな口調で、完璧に包み隠している。それなのに、どこか相手にプレッシャーを感じさせるところは、尋問・拷問部隊の長官をしていた頃から健在だ。

 ベルトルドとキュッリッキに対しては、そうした仮面は存在していないようだ。見ていて驚く程、表情がくるくるとよく変わる。しかし長い付き合いであるライオン傭兵団のメンバーに対しては、ずっと仮面をかぶり続けていた。そつのない笑顔の仮面を。

 ちょっと物思いに耽りだしたルーファスに、メルヴィンは身を乗り出す。

「ところで、ベルトルド様の具合は、本当に大丈夫なんですか?」

「うん、大丈夫そう。寝不足とただの過労なんだってさ。ひと眠りして、もう元気だーって、ベッドの上でふんぞり返っていたから」

 ルーファスはワイングラスを傾けながら、その様子をジェスチャーを交えて再現してみる。食堂の端々からしのび笑う声が2人の耳に届いた。控えている給仕たち使用人も、気になっていたようだった。

「このところ顔色悪かったろ。寝不足だったらしいね。そこに加えて激務激務の過重労働だったから、身体がノックダウンしたようだって」

「普段しゃかりきに若ぶっていますが、あれでもう歳、と呼んでいいですしね…」

「超中年だもんなあ~。昔ほど無理が効かなくなってくるのを、イヤイヤ実感し出す節目の歳だもんね」

 見かけは充分20代後半で通るのだが、実年齢は40を過ぎている。それをベルトルドに言うと、「俺はまだ若いぞ!」と猛烈に怒られる。

 これを機に仕事の量を減らしてくれればと、帰る道中アルカネットが話していた。もっとも、皇王からドカドカ増やされ続けて、それでいて根を上げないから際限がないらしい。

 ローストビーフをもぐもぐと噛みながら、ルーファスは行儀悪くテーブルに肘をついて肩で息をつく。

「せっかくキューリちゃんが元気になってきたのに、ベルトルド様が寝込んで洒落にならないよねえ。オレらも仕事上、健康には気をつけたいね」

「そうですね」

 キュッリッキに笑顔が戻ったところに、ベルトルドの入院騒ぎで、また曇ってしまった。食欲までも消え失せてしまったようだ。

 ベルトルドやアルカネット、そしてルーファスのように、相手の心をほぐしたり、楽しませるジョークやユーモアのセンスが、メルヴィンにはなかった。もとよりそんなに社交的ではないのだ。

 それでもこんな自分に感謝してくれるキュッリッキのために、なにかしてあげたいと思う。

 明日にはどんな元気になる話をしてあげよう、彼女に笑顔は戻るだろうか。そんなことをつらつらと考えながら、手にしていたグラスの中のワインを飲みほした。

 ここ数週間毎日、出勤前に必ず副宰相の屋敷に寄って、少女の診察をしていくのが日課になっている。

 ヴィヒトリにとって、この少女は優秀な患者だった。

 常識では有り得ないレベルの、初めて目にする無残な深い傷を負っていた。生きていること自体稀なだと思うほど、それは本当に酷かった。患部を見たときはあまりの酷さに、処置の難解さを思って武者震いが全身を駆け巡ったほどだ。

 ヴィヒトリは医療スキル〈才能〉のスペシャリストであり、医療面の複合スキル〈才能〉を持つ、極めて珍しいスキル〈才能〉保持者だった。四大レアスキル〈才能〉と肩を並べる希少さだ。

 医療の分野はスキル〈才能〉の種類がとても多くある一つで、その中で外科のスキル〈才能〉を持つものが一番少ないとされている。

 ヴィヒトリはスキル〈才能〉だけではなく、腕も確かでレベルが高く、医療学院でもトップで成績をおさめ、現場で実践を多く積んで実力を磨いていた。

 まだ28歳と若いが、現在医療界では最高峰の医者である。

 より困難で難解な怪我や病気ほど、自らの知識と腕を伸ばしてくれるものはない。キュッリッキの怪我の手術は、ヴィヒトリの腕を更に伸ばしてくれるものだった。

 それからの縁でこうして診察をしているが、今日はいつになく神妙な顔をして、手当が終わるのをじっと待っている。いつもなら診察のために着衣の胸元を開かせると、膨らみの小さな胸を見せるのを恥ずかしがって、もそもそと無駄な抵抗をする。

 診察当初、抵抗されることにイラッ、カチンッときて、思わず「まな板のくせに!」と怒鳴ったことがある。たまたま出仕前で屋敷にいたベルトルドとアルカネットに「見れるだけでもありがたいと思え!」と、意味不明のズレた説教を食らったことがあった。

 当のキュッリッキには、これでもかとガン泣きされて、更にズレた説教を食らったものだった。

 しかし今日は、そんなことよりも悩み事があるようで、ずっと冴えない表情で口を閉ざしている。

「どうしたの? 元気もないし、表情もこわばっている」

 覗き込むように問うと、キュッリッキはちらりとヴィヒトリに目を向けた。口を開きかけ、すぐ閉じる。そして顎を僅かにひいて、躊躇うように再度口を開いた。

「あのね、ちょっとだけ外出しても大丈夫、かな」

 そう言うと、また顔を俯かせてしまう。

「行きたいところがあるの?」

 それには無言で頷きを返してきた。

「どこまで行きたいんだい?」

「……病院」

 ぽつりとしたその言葉に、ヴィヒトリは暫し考え込んだ。そしてあることを思い出して「ああ」と頷いた。

「副宰相閣下の、お見舞いに行きたいんだね」

「うん」

 顔を上げてヴィヒトリを見ながら、キュッリッキは大きく頷いた。

 あと4日ほどで退院して帰ってくるはずだが、よほど心配なのだろう。キュッリッキに元気がないのもそのためで、見舞いのための外出に、許可を得られるか不安だったようだ。

 ヴィヒトリは端整な顔に微笑を浮かべると、キュッリッキの顔を改めて覗き込んだ。

「ひとつだけ条件をクリアしたら、お見舞いに行ってもいいよ」

「条件?」

 嬉しさと不安が入り混じった表情で、キュッリッキは僅かに身を乗り出した。

「今日の朝ごはんを全て食べたら、行ってきてもいい」

「うっ…」

 ベッドの横に特別に設えられてあるテーブルに置かれた朝食のトレイを見て、キュッリッキの表情が嫌そうに引きつった。

 今日は生クリームの添えられたフレンチトースト、スクランブルエッグ、玉ねぎとミルクのスープ、ブロッコリーとジャガイモとニンジンの温サラダ、オレンジのムース。

 少食のキュッリッキに合わせて、量は少ない。

 この屋敷のシェフたちの料理スキル〈才能〉は、SSランクである。どんなに単純な料理でも、最高級の味付けと食材を用いて作られている。

 しかしキュッリッキは、どんなにハイレベルな料理を出されようと、見ただけでお腹いっぱいになってしまう。更に今は食欲なんてなかった。

 テーブルの上の料理をチラッと見て、ヴィヒトリは苦笑を浮かべる。

 屋敷のシェフたちが、キュッリッキの食欲が出るようにと、心を砕いて用意したものだ。それが判らないわけではないだろうが、キュッリッキは手を伸ばそうとはしていなかった。

 こう毎日寝たきりでは食欲などわかないだろうし、今はベルトルドへの心配が大きすぎて、嚥下するのも難しそうである。この様子では、昼食も夕食も、殆ど食べていないだろう。

 怪我の治りは早いが、体力が落ち込みすぎていて、外出をすればたちまち疲労で倒れてしまいそうだ。さらに貧血も心配された。

 怪我の方はもう、ほっといても治る領域になっている。ヴィヒトリ自らが執刀にあたったのだ。毎日診察もしているし、経過も順調で問題もない。

 あえて問題があるとすれば、体力の回復が思わしくないことだ。

 食事もあまり口にしないようだし、ベルトルドの件以外でなにか心配事でもあるのか、このところ憔悴しているのも気になっていた。

「クリア出来そうかい?」

「ん…、が、頑張って食べる」

 崖っぷちに立たされたような表情で、キュッリッキは固く返事をした。

 ベルトルドの見舞いがしたい、その一心で決意したようだ。

「よし、頑張れ」

 ヴィヒトリは軽く笑うと、キュッリッキの頭をポンポンと優しく叩いた。

 キュッリッキの部屋を出ると、ルーファスとメルヴィンが待機していた。

「今日は診察、長引いてたね。キューリちゃん、どっか悪いん?」

「いや、そうじゃないんだけど。――ちょうどよかった、君たちに話があるんだ」

 ヴィヒトリは眼鏡を外して、シャツの裾でレンズを軽く拭くと、かけ直して笑みを深めた。

「キュッリッキちゃん、副宰相閣下のお見舞いに行きたいって。それで外出してもいいかと聞かれたから、朝ごはんを全部食べたら行ってもいい、と許可をしたよ」

「うほほ。んで、食べたの?」

「うん。時間はかかったけど、頑張って全部食べた」

 キュッリッキが残さず食べるように、ヴィヒトリはそばでじっと見ていた。

 監視があるので食べるしかなく、もそもそと口を動かして、辛そうに皿の中身を減らしていく。傍らでフェンリルが同情するようにキュッリッキを見上げていたが、その様子が痛ましいようであり、どこか微笑ましく、ヴィヒトリはずっと笑いをかみ殺していた。

 常人なら足りないくらいの朝食を全てたいらげ、キュッリッキは青ざめた顔で枕にもたれかかった。胃もたれをおこしているのだろう、ヴィヒトリは薬を飲ませて休ませた。

「1時間ほど食休みさせたら、病院へ連れて行ってあげてね。閣下のお見舞いが済んだら、ボクの診察室へ連れてきて。たぶん疲れてぐったりしちゃってるだろうから」

「判りました」

 これにはメルヴィンが神妙に頷く。

「じゃあボクは病院へ行くよ。兄貴によろしくネ」

 ひらひらと手を振ると、ヴィヒトリは行ってしまった。

 その後ろ姿を眺めながら、ルーファスが苦笑する。

「とても兄弟だとは思えないよなあ~。顔はよく似てるけど、兄は格闘バカ、弟は世界最高峰の医者ときたもんだ」

「リッキーさんは気づいてないようですけど、知ったらびっくりするでしょうねえ」

「ホントだよな。ヴァルトの弟が、担当医なんてな」

 胃薬を飲んでひと休みした頃、リトヴァと数名のメイドたちが部屋にやってきて、外出のための身支度をしてくれた。

 メイドのアリサが、衣装部屋から3着ワンピースを選んで持ってきた。

「どれになさいますか、お嬢様」

「うんと…、この青紫色のがいいかも」

「はい。ではこれにお召かえしましょうね」

 リボンとレースをふんだんにあしらった、クラシカルなデザインのワンピース。シルクの肌触りにくすぐったさを感じて、キュッリッキは僅かに目を細めた。

 この上に花模様で編まれた、白いレースのケープを着せてもらい、頭には白いリボンを結んでもらう。そして胸元には、パッションフラワーを模した花のコサージュをつけてもらった。

 すでに包帯は取り払われていたが、よりほっそりと痩せ細った右腕が隠れるように、ケープがすっぽり覆ってくれていた。

 初夏の街にふさわしい外出着だ。一体いつの間に用意したのか、キュッリッキが不思議そうにしていると、

「お嬢様がいつ元気になられてもいいようにと、旦那様とアルカネット様が、これでもかと沢山ご用意してあるんですよ」

 キュッリッキの部屋には衣装部屋も隣接してあり、そこに大量にキュッリッキのための衣装が揃えられているという。衣装選びは2人が入念におこなったらしい。

 どのくらいあるんだろう、そう思う興味がほんのちょっと、あとはもう衣装部屋を見るのも怖かった。いつも動きやすくカジュアルな服が数着あるレベルの生活を送ってきたので、貴族の令嬢や資産家の娘のような、たくさんの衣装持ちは性に合わなかった。

 身支度が整い、ルーファスとメルヴィンが部屋に呼ばれる。

 ベッドの上に座り、フェンリルを膝の上に乗せているその姿は、可憐な人形のようだ。あまりの愛らしい姿に、メルヴィンの表情がほころんだ。

「綺麗におめかししてもらったね、キューリちゃん」

 ルーファスがにっこりと言うと、はにかんだようにキュッリッキは微笑んだ。

「では行きましょうか、リッキーさん」

 そう言ってメルヴィンは、キュッリッキを抱き上げた。

 ゴンドラには寝椅子が設えられ、ゆったりできるようにクッションがいくつも置かれていた。そこへキュッリッキを寝かせ、前後にルーファスとメルヴィンが付き添う。

「お嬢様にこれを」

 見送りのために出ていたリトヴァが、手にしていた白い帽子を差し出す。ふわりとした柔らかい水色のリボンが巻かれた、つば広の帽子だ。

 ルーファスが帽子を受け取り、キュッリッキにかぶせてやる。

「いってらっしゃいませ」

 頭を下げた使用人たちに見送られ、ゴンドラが緩やかに滑り出した。

「病院までは、どのくらいかかるの?」

「そうですね、30分くらいでしょうか」

「だな。このスピードじゃあね~」

 歩くよりも遅いゴンドラの進みに、ルーファスはうんざりした顔を露骨に出していた。しかし今のキュッリッキの体調を考えれば、このくらいがちょうどいいのかもしれなかった。

「お花、萎れる前に到着すればいいな」

 キュッリッキが手にしているのは、青紫色と白色のバラだった。ベルトルド邸の庭に咲いているバラだ。

 数は少ないが、大きく綺麗なものを庭師に選んでもらって花束にした。最近フェンリルが全幅の信頼を置いているという、初老の男でカープロという。何故庭師に信頼を? とキュッリッキが尋ねると、秘密なのだそうだ。

 ベルトルドが好きな花なら、病室に飾ってあげると喜ぶだろうとキュッリッキは思った。

 ふと顔をあげて、街の風景を物珍しく眺める。

 夏の空は真っ青で、白く柔らかな光を反射する城壁に照らされた街は、幻想的な淡い光に包まれている。温度管理もされているらしく、あまり蒸し暑くもなく、からりと乾いた過ごしやすい気温になっていた。

 ゴンドラは病院へのルートをとっていたので、屋敷街のあたりは通らなかったが、行政や軍事施設のそばの通路を走っていたので、初めて見る立派な建物の数々に、キュッリッキは目を輝かせた。

「ファニーやハドリーにも、見せてあげたいなあ」

 一緒に遊びに来よう、と誘って話していたのは、つい数週間前のことだ。

 あの、ナルバ山の遺跡の中で。

 そういえば、2人とも無事だろうか。怪我はしなかっただろうか。2人のことをこれまですっぽり忘れていたことに、白状な自分の神経に思わず凹む。

「2人共無事だったのかな…」

「怪我もなく大丈夫ですよ。カーティスさんたちと一緒に、イララクスまで戻ってきましたから」

 キュッリッキの呟きを受けて、メルヴィンが答えた。

「よかったの…」

「そうだ、お見舞いにきてもらったらどうでしょうか?」

 その提案に、キュッリッキの顔がパッと明るくなる。

「うん。ベルトルドさんに聞いてみる」

 ゴンドラが病院前のターミナルに着くと、待っていたヴィヒトリが出迎えてくれた。

 用意されていた車椅子にキュッリッキを座らせて、ヴィヒトリの案内でベルトルドの病室へ向かう。

「ちょっと今日はタイミング悪かったかも。閣下熱を出しちゃって、今眠ってるはずだよ」

「え!」

 前を歩くヴィヒトリに顔を向けると、キュッリッキは車椅子から身を乗り出した。

「大丈夫なの? 酷いの??」

「リッキーさん危ないから、ちゃんと座って」

 前のめりに倒れそうになって、ルーファスが慌てて支える。

「キューリちゃん、病院で怪我したら洒落にならないから、とにかく落ち着いて」

 後ろの3人の様子に気づいて、ヴィヒトリは歩みを止めた。

 ルーファスの腕にしがみついて、キュッリッキが泣きそうな顔で見上げてくる。周りにいる病院のスタッフたちが、怪訝そうに4人を見ていた。

「疲れからくるものだから、心配ないよ。ただの過労だから」

 ヴィヒトリはその場にしゃがみこむと、キュッリッキと目線を同じにする。

「運び込まれて数日遅れで発熱するとか、やっぱ中年になると、身体のテンポが遅くなるんだよね~。見てくれだけは若いから。なので、そんな泣きそうになるほどの心配事じゃないよ。判った?」

 嫌味を交えてにこにこと言われ、さすがにキュッリッキの顔が引きつった。ルーファスとメルヴィンが、大笑いしたいのを必死で堪えている。

 陰で散々言われ放題のベルトルドに、妙に同情心が掻き立てられてしまった。

 嫌味はともかく、ヴィヒトリがそう言うのなら、たぶん大丈夫なのだろう。

 要人などの入院患者病棟に入り、最奥のベルトルドの病室に着いて、セヴェリに出迎えられた。

 車椅子に座り、バラの花束を胸に押し抱くキュッリッキを見て、セヴェリは僅かに眉を上げる。

「お嬢様のお顔色が、少々悪いように見えますが…」

「久しぶりの外出で疲れてるだけだから、大丈夫だよ。お見舞いが済んだらボクの診察室で、少し休んでいくといい」

 そう言いおいて、ヴィヒトリは病室を出て行った。

 広い病室の中央に置かれた大きなベッドに、ベルトルドは寝ていた。

「ベルトルドさん…」

 キュッリッキはか細い声で、小さく呟く。ベッドの傍らに車椅子をつけてもらった。

 熱のためか、白い頬が僅かに赤みを帯びている。薬が効いているようで、呼吸は安定していた。傲岸不遜でやんちゃな表情も、今はすっかり鳴りを潜め、美しい顔立ちの青年が寝ているだけだ。

 点滴を受けている左腕はシーツの外に出されていて、いつも優しく頭を撫でてくれる大きな手は、力なくベッドに置かれていた。

 キュッリッキは恐る恐る、その手にそっと自分の手をのせる。萎えて動きの鈍い右手も、苦労して持ち上げ甲に重ねた。

 いつもよりずっと熱い手をしている。力強さもまるで感じられない。

 こうして見舞いにきたと判れば、満面に笑みを浮かべてベッドから飛び上がって出迎えてくれそうなのに、今はぐっすりと眠っている。

(アタシのせいだ…)

 毎日毎日夜中に泣き喚いて、そのせいでベルトルドもアルカネットも起きてしまう。そして、気にするな、我慢しなくていい、そう言って逆に慰めてくれるのだ。

 作り物じゃない、心からの優しい笑顔を向けてくれる。

 このまま体調を崩して、余計悪くなったりしたらどうしよう。そう考えると、急に不安が全身を駆け抜けて、足元からジワジワと冷たいものが這い上がってきた。

(どうしよう…、ベルトルドさん死んじゃったらどうしよう…)

 愛していると、初めてそう言ってくれた人だ。こんな自分を、大好きだと言ってくれた。それなのに、自分はベルトルドをこんな風にしてしまったのだ。

 失うかもしれないという心細さに包まれ、キュッリッキはしゃくりあげ、ぽろぽろと涙を流して泣き出してしまった。

 黙って後ろに控えていたメルヴィンとルーファスは、目の前でいきなり泣き出したキュッリッキに、ぎょっとして身を乗り出す。

「ど、どうしたのキューリちゃん!?」

「リッキーさん?」

 2人は傍らにしゃがみこんで、オロオロと慰めにかかる。でも慰められると余計に悲しくなり、暫くキュッリッキは泣きじゃくっていた。

 セヴェリは3人の様子を、離れたところで微笑ましそうに見ていた。

 それはまるで、父親の見舞いに訪れた娘が、心配のあまり泣き出して、年の離れた兄たちに慰められているかのようだ。

 ベルトルド邸で働く使用人の殆どが、キュッリッキはベルトルドの娘だと信じて疑っていない。実際ベルトルドの女性遍歴は盛んで、どこかで子供が出来ていてもおかしくなかったからだ。

 セヴェリとハウスキーパーのリトヴァだけは、2人に血のつながりがないことは判っているが、たとえ父娘おやこであっても構わないとも思っていた。

 いつまででも泣いていられそうだったが、身体のほうがその欲求に応えられず、キュッリッキは泣き疲れて眠ってしまった。

「泣くほど心配だったのね、キューリちゃん…」

 頭をカシカシと掻きながら、ルーファスはふうっと息を吐いた。年齢に関係なく、泣いてる女の子は苦手なのだ。それはメルヴィンも同じで、どうすれば泣き止むのか、内心ハラハラしていた。戦場を走るよりも緊張してしまう。

「ヴィヒトリ先生のところへ行きましょうか」

 キュッリッキを車椅子から抱き上げると、メルヴィンはセヴェリに目礼した。

「旦那様には、あとでお伝えしておきます」

「お願いします」

 キュッリッキの泣き声にも目を覚まさないほど、ぐっすりと眠るベルトルドの顔を一瞥し、ルーファスはメルヴィンのあとを追って病室を出た。