片翼の召喚士 ep.72 ベルトルド倒れる

chapter-5.初恋の予感編
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片翼の召喚士 ep.72 ベルトルド倒れる

 ベルトルド邸に運び込まれてから、もう12日になる。

 優秀な名医であるヴィヒトリの執刀で、通常よりもずっと早く傷口は塞がっていっている。それに、食事を少しずつでも摂るようになって、更に治りも早まっていた。

 上半身を起こして、枕にもたれてベッドの上に座れるまでになったキュッリッキは、メルヴィンから桃のコンポートを食べさせてもらっていた。左手で食べてみると挑戦したが、あまり首がかがまないこともあって、自分で食べることは断念した。

「利き手がずっと塞がってると、やっぱ不便」

 化物に切り裂かれた胴の右側は、腕ごと包帯でガッチリ固定されて動かせないでいる。しかし、あともう2,3日我慢すれば、包帯は取ってもいいとのことだった。

「そうですね。でも、治りが早くて本当に良かったです」

 メルヴィンはにっこり微笑みながら、空になった皿をワゴンに置いて、まだほんのりと温かい紅茶のカップを取って、キュッリッキの左手に持たせた。

「こうして身体も起こせるようになったし、元気が出れば、もっと早く治りますよ」

 ちょっと躊躇うように言うメルヴィンに、キュッリッキは苦笑を向けるにとどめた。

 相変わらず夜中に目を覚まして泣き喚いたりすることがあり、朝にはぐったりとしてしまっているのだ。そのことを、メルヴィンは暗に言っている。理由もずっと話せずにいるが、こうして心配し続けてくれていることは、とても嬉しかった。

(メルヴィンって、優しいなあ…)

 空の食器を片付けに行っているので、部屋の中にはキュッリッキしかいない。ルーファスはこのところ、午前中は部屋で寝ている。

 なんでも、夜中に屋敷のメイドと、大人の付き合いがあるそうだ。それがどんな付き合いなのかキュッリッキには判らなかったが、ルーファスはいつもご機嫌なので、きっと楽しくゲームでもして遊んでいるんだと想像していた。

 その為午前中は、ほぼメルヴィンだけがキュッリッキの傍に居てくれる。

 改めて思い起こしてみると、この屋敷に来てからずっと、そばで励まし続けてくれた。あのナルバ山の遺跡で倒れている間も、左手を握って励ましてくれていた。

 身体が氷のように冷えていく中で、メルヴィンが握ってくれていた左手だけが、唯一優しい温かさを保っていた。

「メルヴィン…」

 その名を囁くように呟く。すると、心がちょっとドキドキとした。

「そういえばアタシ、メルヴィンのことなんにも知らないかも」

 それを思うと、急に心が寂しくなった。ライオン傭兵団に入って、まだひと月あまりだ。ただ、優しい人だということだけは判っている。

「もっと、メルヴィンのこと知りたい」

 誰かのことを知りたい、と思ったことが、実は初めてだということを、キュッリッキは気づいていなかった。

「戻りました」

 食器を片付けに行っていたメルヴィンが戻ってきて、キュッリッキの心臓が一瞬ドクンッと跳ねた。

「お、おかえりなさいっ」

 なんだか慌てた物言いと、妙に赤らんだ顔で出迎えられて、メルヴィンは小さく首をかしげる。

(び、びっくりしちゃったのっ)

「もっと、メルヴィンのこと知りたい」などと言っていたら当人が戻ってきたので、聞かれたんじゃないかと内心焦っていた。

「顔が赤いですよ。熱でもあるのかなあ」

 メルヴィンはそう言いながら、キュッリッキの額に大きな掌をあてる。

「んー、ちょっと熱いけど、大丈夫ですか? 身体を起こしてるとまだまだ辛いのかな。横になりますか?」

 顔を覗きこまれて、キュッリッキは首を横にブンブン振った。その拍子に傷口に響いて顔が歪む。

「だいじょうぶなの!」

 モロ痛そうな顔で大丈夫と言われても、そう内心で思いながらも、メルヴィンは身体を起こして、ベッドの傍らの椅子に座る。

「横になりたい時は、すぐ言ってくださいね」

「うん、ありがとう」

 キュッリッキは心の中で、大仰に溜息をついた。

(アタシ、何をそんなに慌ててるの…。ヘンなの)

 チラリとメルヴィンを見ると、穏やかな表情で、新聞を広げて読んでいる。

 この屋敷では、新聞はアルカネットが一番最初に読んで、それから執事代理のセヴェリが必要欄だけ目を通す。ベルトルドは「出仕したら大量の書類を読まねばならんのに、出仕前に細かい文字の羅列なんか読む気になれん!」と言って全く読まない。それで、最近ではメルヴィンが新聞を借りてきて読んでいた。

 背筋を伸ばし、長い脚を組んで新聞を読む姿が、素敵で格好良い。そんな風に思って、キュッリッキは更に顔を赤くした。

(ばっ、やっぱりアタシの頭の中、ヘンになっちゃったかもっ!)

 今までドキドキしながら、誰かのことをこんなに意識するなんて、一度だってなかったのに。急に自分は、どうしてしまったんだろう。意味もなくジタバタしたい衝動に襲われた。

(ヘンっ! ヘンっ! ヘンなのっ!!)

 キュッリッキは左手をギュッと握ると、ベッドをポスッと叩いた。

「ん? どうしました?」

 新聞から顔を上げたメルヴィンと目が合ってしまい、キュッリッキは笑顔と焦りを同居させた奇妙な表情をした。

「ううううんっ、なんでもナイの!」

「そ、そうですか…」

 挙動不審、という四文字熟語がメルヴィンの頭を過ぎったが、必死に否定してくるので小さく頷いた。深く追求したら、物が飛んできそうな雰囲気なのだ。

(女の子は、難しい生き物)

 新聞の続きを読むために、メルヴィンはそう自己完結してしまった。

 難しい生き物にされてしまったキュッリッキは、

(穴があったら、入りたいの…)

 ジワジワと恥ずかしさがこみ上げてきて、ガックリとショートしてしまっていた。

 昼食をとるためにメルヴィンが部屋を出て行くと、キュッリッキはホウッと切なげに息を吐き出した。

 長椅子に置かれた、青い天鵞絨張りクッションの上に寝そべっていたフェンリルは、身を起こしてクッションから飛び降りた。そしてゆっくりとベッドに歩み寄ると、ヒョィッとベッドに飛び乗る。

「フェンリル…」

 仰向けに横たわるキュッリッキの胸に飛び乗ったフェンリルは、頭でキュッリッキの顎を小突く。「なに悩んでるんだ」と言いたげな仕草に、キュッリッキはムゥっと口をへの字に曲げた。

「なんかアタシ、ヘンになっちゃった」

 左手の人差し指で、フェンリルの小さな頭をクリクリと弄る。それを嫌がるように、フェンリルは全身を大きく振った。

「メルヴィンのこと考えると、胸がドキドキしたり、恥ずかしくなったりするんだよ。近くにいるとソワソワするし、いなくなるとガッカリしたり…。前はそんなことなかったのに、最近そうなっちゃうの。何でかなあ?」

 フェンリルはフンッと鼻を鳴らす。「そんなの知るか」と言いたげだ。キュッリッキは「あーあ」と呟く。

「こんなの初めてだから、ワケワカンナイ。しんどいし、疲れちゃった…」

 拗ねたように唇を尖らせ、左手の甲を額にあてた。考えれば考えるほど、気が重くなっていった。

「色んなことありすぎて、きっと壊れちゃったんだね、アタシ」

 キュッリッキがワケワカンナイ悩みにモヤモヤしている頃、ベルトルドは激しい睡魔と戦っていた。

 かれこれ12日以上も、睡眠不足が続いている。人間無理が利くもんだ、などと胸中でぼやく。

(せめて、昼寝できればまだいいんだが…)

 減る気配のない書類の山にイラッとするものを感じ、デスク前に立つ下級士官を、険悪な目つきでギロリと睨みつけた。睨まれた下級士官は訳が判らず、背中で大量の冷や汗を流しまくる。

 今日は総帥本部の執務室で、軍関係の仕事に従事していた。ここでの仕事が終われば、次は宰相府である。

 現在水面下で進んでいるとある計画に関連して、軍関係の仕事の量がどんどん増えていくのだ。そのせいで、昼食をとる休憩時間も返上だった。

(ああ、眠い…)

 分刻みの仕事が夜更けまで続くこともあり、真夜中はキュッリッキのことでちょくちょく目を覚まし、身体を休める暇もない。休日も返上で働いていて、顔色も悪く、目の下には隈が住み着いていた。

「ベル」

「ん?」

「ちょっと休む? さすがに顔色悪くて心配だわ」

 傍らで書類整理を手伝っていたリュリュが、心配そうに眉を寄せる。

「…いや、大丈夫だ」

 本当は今すぐにでも寝たいところだったが、寝ると朝まで起きない気がしていた。なので、気が抜けない。

「そお? 心臓発作起こさない程度になさいね」

「ンなもんならんわっ!」

 フンッと気合の鼻息を噴き出し、ベルトルドは書類にペンを走らせた。

 近いうち大規模に軍を動かすことが予定されていることもあり、正規部隊は頻繁に演習を行っていた。

 軍総帥ともなると、デスクの前に座して、書類だけさばいてればイイというわけにもいかない。その為、総帥の地位を押し付けられてしまったベルトルドは、仕上がり具合を見るべく、演習の視察に出向いていた。

「3年前のヘタレっぷりを見ているからな、あんな腑抜けどもを出陣させるのは気が気じゃない。正式に出撃するまでまだ日もある。存分に心ゆくまで、トコトン徹底的に、しっかりしごいて仕上げておくように」

 言い含めるように、を通り越し、脅迫するような口調で釘を刺す。

「承りました、閣下」

 にこやかに応じて、ブルーベル将軍は恭しく一礼した。第一正規部隊のエクルース大将と、第二正規部隊のアークラ大将も、同時に敬礼して表情を固くした。

 ベルトルドの言う3年前とは、両大将とも骨身に滲みて判っている。あの場にはアルカネットもいて、2人の鬼神の如き暴れっぷりに、開いた口が塞がらないほど驚いたのである。

 これで3年前より出来が悪かったら、その場で全員粛清されかねないのだ。

「この穀潰しの役立たずどもめがー!!」というベルトルドの怒号が、脳内に幻聴のごとく轟いて、エクルース大将はゲッソリと内心溜息をついていた。指揮する大将たちも、一切手を抜けない。

 Overランクのスキル〈才能〉を持つベルトルドのサイ《超能力》は、正規部隊全てを投入しても易易と退けるだけの力があると言われている。3年前その力の程を散々見せつけられて、しかも本気を出していなかったと言う。本気を出したらと思うと、想像を絶するレベルである。

 そんなベルトルドが仕上げろというのだから、毎日血反吐を撒き散らして、全力で訓練を積まなくては、期待に応えるのは難しいだろう。

「それにしても…、陽射しが強いな」

 空を仰ぎ見て、ベルトルドは目を眇める。額のところに左手を翳して、カンカンと照りつける陽射しを避けた。寝不足の身体には、この陽射しはキツイ。

 皇都イララクス郊外にある、正規部隊の演習場の一つは、だだっ広い荒野があるだけだ。むき出しの地面はヒビ割れ乾いており、そよ風が吹いただけで砂塵が舞う。地平線には陽炎が揺らめいていた。

 もう6月も半ばを過ぎており、本格的な夏は目の前だ。

 足が重く感じられて座りたくなり、仮設テントに戻ろうとした瞬間、不意に身体がグラリと傾いで、目の前に闇が射す。

「いかん、目の前が…」

 呟くように言うと、ベルトルドは突然昏倒してしまった。

「ベル!?」

 ドサッと俯せに倒れたベルトルドに、リュリュは悲鳴を上げた。ブルーベル将軍たちもギョッと目を剥いて、慌てて跪く。

「閣下!」

 ブルーベル将軍がベルトルドを抱き起こしたが、意識を失っており、辺りは一気に騒然となった。

「ベル、ベルッ!」

 いつになく取り乱したリュリュは、悲痛な声で呼びかけた。ベルトルドは血の気を失った顔色で、ピクリとも動かない。それに負けないくらい、リュリュの顔も蒼白になっていた。

 この頃顔色が悪く、寝不足続きだと言っていた。それ以外は特に不調を訴えていなかったので、まさかこうして倒れることになるとは思っていなかったのだ。

「無理するからよ! 見かけは若いけど、もうアラフォーのオッサンなんだから。若いつもりでも、無理が効かなくなってくるお年頃なのよ、もぉ。――あんまりにも目を覚まさないと、覚ますまで暴れん棒をしゃぶりつくすわよ!」

(それはヤメてあげてっ!)

 そうエクルース大将とアークラ大将は、心の中で搾り出すように叫んだ。

 リュリュのお仕置きシーンは、過去何度か目撃している。その時のことを思い出すと、同じ男として悲劇としか思えない。お仕置きにさらされているベルトルドには、同情しか湧いてこないのだった。

「さしあたって深刻な病気を患っているというわけではなさそうですし、とにかく病院へお運びしましょう」

 ブルーベル将軍は軽々と、ベルトルドを両腕に抱き抱える。その言葉に、2人の大将はハッとなった。

「至急、こちらに車を回せ!」

 エクルース大将は慌てて副官に命じる。

「演習の指揮は小官とエクルース大将で引き継ぎます。将軍とリュリュ殿は、閣下と病院へお急ぎください」

「お願いしますよ」

 アークラ大将に頷いて、ブルーベル将軍はベルトルドを抱え、車に乗り込んだ。

「あとは任せるわ」

 リュリュも続いて乗り込むと、運転手の士官がドアを閉めた。

 電力を使って動かす車である。皇王一族、宰相、副宰相のみが使用を許される、特別公用車だ。

 超古代文明の遺産なので、数がとても少なく、公用のものが数台あるだけだ。ハーメンリンナに住む貴族たちですら、車は所有していない。

 シュイーンというエンジン音を響かせながら、車は演習場をあとにした。