片翼の召喚士 ep.68 責苛む過去の記憶

chapter-4.記憶の残滓編
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片翼の召喚士 ep.68 責苛む過去の記憶

 キュッリッキは膝を抱えて、平らな地面に座っていた。周りは暗くて、でも自分の姿はハッキリと浮かんでいる。

 これは意識の中だ、とキュッリッキには判っている。時々、スコンッと陥る時があるのだ。

(また、やっちゃった…)

 過去のことを夢に見て、見境がつかなくなって、ベルトルドとアルカネットに酷い態度を取ってしまった。しかし2人は、もうこれからそのことを気に病まなくていい、どんどんぶつけろと言ってくれた。でも、そんな態度を取ってしまうと、後でこうして気分が塞いでしまうのだ。

(あれは、フェンリルと一緒に、初めて惑星ヒイシに来たばかりの頃のだったなあ…)

 顔を上げたキュッリッキの目の前でぼんやりと空間が滲み、そこに幼い頃のキュッリッキの姿を映す出す。

 修道院の建つ奇岩の上から突き落とされたキュッリッキは、間一髪フェンリルに助けられ、そのまま修道院を出て行った。

 行くあてなどないし、この先ずっと生きていかなくてはならない。生きる目的も目標もなかったが、死んでしまうのは嫌だった。

 アイオン族の治める惑星ペッコは、浮遊する大陸や島が多くあり、街や村などはほどんど浮遊島や浮遊大陸にある。地に根ざした土地は、畑や牧場などしかなく、飛べないキュッリッキには厳しい環境だ。

 そこでフェンリルは、キュッリッキを惑星ヒイシに連れてきた。ヴィプネン族が治める惑星だ。ここでなら、アイオン族だということを隠し、ヴィプネン族に紛れて生きていける。片翼で迫害を受けることはないのだ。

 迫害の心配はなくなったが、7歳の幼い少女が生きるには、厳しい環境であることに変わりはない。

 フェンリルはキュッリッキを施設にあずけることは、絶対にしなかった。アイオン族の修道院で、キュッリッキが受けていた差別や虐めの数々を見てきて、人間を信用できなくなっていたからだ。あんな目に遭うくらいなら、1人で生きていけばいい、そうフェンリルは譲らなかった。そしてフェンリルとキュッリッキは、惑星ヒイシを彷徨った。

 ちょっと賑やかな町にたどり着いたとき、キュッリッキはお腹がすき過ぎて、町の隅に座り込んでしまった。

「なにかたべたいの…」

 悲鳴を上げっぱなしのお腹を小さな手で押さえ、目に涙をいっぱい浮かべて、キュッリッキは肩を震わせた。

 神であるフェンリルには空腹などない。食事をすることがないので、キュッリッキの食の心配を一切していなかったのだ。フェンリルは慌てて食べ物を調達しに、町の中に飛び出していった。

 フェンリルが町の中に消えて暫くすると、とても美味しそうな匂いが、キュッリッキの鼻先を掠めていった。これは、パンの焼ける匂いだ。

 キュッリッキはフラフラと立ち上がると、匂いを辿ってトボトボと歩き出した。パンの匂いに刺激された胃袋が、もう止まらないほど鳴きっぱなしだ。

 焼きたての美味しそうなパンが、露店の台の上に山ほど積まれている。温かな湯気がまだたっていて、辺りを香ばしい匂いで包み込んでいた。

 それが、店だということをキュッリッキは知らない。そして、台の上のパンが、売り物であるということも知らなかった。露店など初めて目にするのである。

 キュッリッキは必死に手を伸ばし、台の上のパンを手にとった。その時、

「なっ、なんだいこの薄汚い子は!」

 痩せぎすの中年の女が、驚いた顔で大声を上げた。

「この私の目の前で、堂々と盗みを働くとか、とんでもない子だよ!」

 キュッリッキは唖然として、ただただ女を見上げた。細長い四角いパンを、無意識にギュッと胸の前で抱きしめた。

「大事な商売品を、お返しよ!!」

 中年の女は長い腕を伸ばし、キュッリッキの抱きしめるパンを掴み、力いっぱい引っ張った。その拍子に、キュッリッキは前につんのめって、仰向けに地面に倒れてしまった。

「なんの騒ぎだ」

「アンタ」

 露店の前に、恰幅のいい男が怪訝そうに寄ってきた。

「この薄汚いガキが、パンを盗もうとしたんだよっ」

「なんだってぇ?」

 男は禿げ上がった額を押さえて「ハァ…」と息を吐き出すと、倒れているキュッリッキの横腹を思い切り蹴りつけた。

(!?)

 重い衝撃と痛みがいきなり襲ってきて、キュッリッキは目を見開き、そして胃液を吐きだした。目からは涙が弾け飛ぶ。

「このあたりじゃ見かけねえガキだな。どっから流れてきたんだ、この乞食が」

 男はもう一度、激しい蹴りを腹に見舞った。

 痛みと酷い吐き気で目眩がして、キュッリッキは起き上がることも声を出すこともできない。それ以上に、恐怖に包まれて震えだした。

(こわいよ…、こわいよ…)

「裏のドブ川にでも、捨てときなよ」

「ああ、そうすっか」

 男はキュッリッキの襟元を掴んで持ち上げると、小さな左右の頬を何度も平手打ちする。

「テメーの親の代わりに、躾てやる。泥棒は悪いことだってな」

 再び強く打ち付けられて、キュッリッキはついに意識を手放した。

「どれ、捨ててくるか」

 キュッリッキを片手にぶら下げたまま、男は町の裏に流れるドブ川までくると、キュッリッキの顔にヤニ臭い唾を吐きつけた。

「二度とくるんじゃねえ」

 軽々とキュッリッキをドブ川に放り込むと、男は愉快そうにゲラゲラと笑って、町へ戻っていった。

 溺死する寸前、駆けつけたフェンリルに助け出され、キュッリッキは命を取り留めた。

(泥棒しちゃったのはアタシが悪いけど、あの時は、悪いことだって、知らなかったんだもん…)

 本当に何も知らなかった。誰も、教えてくれなかったから。

(もう思い出したくない……。思い出したくないよ)

 キュッリッキの意識は、やがて闇色の中に、ゆっくりと溶け込んでいった。

「これから暫くは、どんどん過去の記憶を夢に見るぞ」

「そんな、どうにかできないんですか?」

「どうにもしない」

 天蓋を見つめながら、ベルトルドは素っ気なく言い切った。その、あまりにも淡白な言いように、アルカネットが鼻白む。

「……出来ないからしないのか、出来るけどしたくないのか、どっちなのですか?」

 恨み言のような口調になるアルカネットに、ベルトルドはフンッと鼻を鳴らす。

「そのどっちでもない」

「理由を、お聞かせください」

「溜め込んでいるものを、全部吐き出させるためだ」

 ベルトルドはアルカネットの方へと、身体の向きを変えた。そして、今にも飛びかかってきそうなアルカネットの顔を、ジッと見据える。

「思い出すのは辛いだろう。その時の状況や気持ちも、全部蘇るのだからな。だがな、そんな汚泥をいつまでも心の中に溜め続け、蓋をしても、かえって精神や身体に悪影響しか及ぼさない。これまで居場所を得られなかった、最大の要因だからだ。それならば、全て吐き出させて、心を軽くしてやりたい。本当の意味で、心から救ってやりたいんだ」

「しかし、今でなくてもいいでしょう? こんな大怪我を負っているというのに、逆効果にしかなりませんよ」

 ベルトルドの言っていることは理解しているが、今のキュッリッキの健康状態を考えると、無理強いはしたくないのがアルカネットの心情だ。

「怪我の治りを遅くするかもしれません…。あなたは、あの酷い怪我を直に見ていないから、無慈悲に言えるのです」

「怪我のことなら、ヴィヒトリに任せてある。あいつが診ているんだから、リッキーの怪我は予定通りに必ず治るさ」

「呑気な言い草ですね」

「今がチャンスなんだよ、アルカネット」

「意味が判りません」

「俺の愛がリッキーの心に安心感を芽生えさせた。そのことで、もう辛いことを1人で抱え込まなくていい、全部俺にぶつければいいんだ、そう思うことができるようになった。そして今は気が緩んでいるから、どんどん思い出してくる。全部吐き出させるチャンスなんだ」

「……私の愛で、と訂正しておきます」

「フンッ」

 ベルトルドは2人の間に挟まれて眠るキュッリッキの髪の毛を、指に掬い取った。

「辛くても辛いと言えない幼少期を送ってきたんだ。慰めてくれる大人も持たず、優しくしてくれる大人もいなかった。甘えることも知らないから、これから存分に甘やかしてやらないとな」

「まるで父親ですね」

 ベルトルドは物凄く嫌そうな顔をアルカネットに向ける。

「愛し合う恋人同士だろうが」

「いえいえ、娘を案じる父親そのものですよ」

「……リッキーの怪我が治ったら、もっと色っぽい関係に導いてやる」

「私がそれを許すとお思いですか?」

「邪魔すんなっ」

 シッ、シッとベルトルドは払う仕草で片手を振った。

「馬鹿な真似をしていないで、もう寝てください。起こす私の身にもなっていただきたいものです」

「俺は低血圧なんだ」

「ハイハイ。おやすみなさい」

「……おやすみ」

「おはようございます、リッキーさん」

「おはよう、メルヴィン」

 ベッドの傍らにある椅子に座るメルヴィンに、キュッリッキは小さな笑みを向ける。その笑みを受けて、メルヴィンは僅かに表情を曇らせた。

 また目が腫れている。それに、どことなく疲れている様子だった。

 昨夜もキュッリッキの大きな叫び声と泣き声が、隣の部屋のメルヴィンにも聞こえていた。しっかりした厚みのある壁なので、くぐもったような音になっていたが、鋭い聴力を持つメルヴィンの耳は、その声を判別していた。

 先ほど朝食の時に、ベルトルドとアルカネットに問いただしてみたが、

「貴様らが気にすることじゃない」

「詮索しないことです」

 そう突っぱねられてしまった。食い下がっても話してくれそうもない雰囲気プラス、余計なことはするな、という念押しオーラも漂っていたので、それ以上聞き出すことができない。なので、

(リッキーさんに、直接聞いちゃって、いいのかな…)

 何度も胸中で繰り返すが、キュッリッキの顔を見ていると、口に出せなかった。

 興味本位で触れていいことではないのは判る。しかし、もしキュッリッキが心の底から困っていることがあったら、少しでも力になりたい。微力でも助けになるのなら、いくらでも頼って欲しかった。

「リッキーさん」

「うん?」

「あの、その、…もし話したいことがあるなら、オレ、いくらでも聞きますから。なんでも言ってくださいね」

 端整な顔を情けないほど赤くしながら、メルヴィンはしどろもどろといった口調で、ようやく言った。

 洒脱な会話はもっとも苦手である。更に冗談や軽口も苦手だ。

 ルーファスやマリオンたちのように気楽な雰囲気で会話できれば、キュッリッキも話しやすいだろうと常に思っているほどに。

 堅物で生真面目で社交的ではないので、こういう時は、本当に困ってしまう。

「……ありがとう、メルヴィン」

 穏やかな口調でそう言われて、メルヴィンはハッとキュッリッキの顔を見つめた。嬉しさを滲ませた笑顔を、自分に向けてくれている。

(少しは気持ちが、伝わったかな)

 自信なくそう思いつつも、メルヴィンは肩の力を抜くと、照れくさそうに指先で頬を掻いた。

 キュッリッキはというと、突然のメルヴィンの言葉に少々驚いていた。

 言いたいことが顔に書いてあったのだろうか、それを感じてくれたんだろうか。

 メルヴィンのスキル〈才能〉はサイ《超能力》ではないけど、言葉にしなくても、感じることのできる人なのだろう。

 メルヴィンの気持ちは嬉しかったが、メルヴィンはキュッリッキの過去を知らない。ベルトルドやアルカネットのように、全てを知った上で案じてくれているわけではないのだ。

 今はきっと、職務の延長みたいな感じなのかもしれない。

 自分の過去を打ち明ける勇気は出ない。まだ、そこまでメルヴィンを信用していないからだ。

 だから全てをさらけ出すことはできない。でも、こうして真摯に心配してくれることが嬉しかった。

「おっはよー、キューリちゃん」

 静まり返ったその場に、ルーファスの明るい声が割り込んできて、当人がにこやかな笑顔で登場した。

「おはようルーさん」

 ベッドの傍らに立ったルーファスを見上げて、キュッリッキは目を丸くする。ルーファスは両手に、大量の雑誌を抱えているのだ。

「なあにそれ? ルーさん」

「えっへへーん。ベルトルド様が隠し持ってた、超豪華未修正エロ本ナンダヨネ~。これなかなか流通してない、秘蔵中の秘蔵本なんだよ。もう涎まくりで、オレの読書ライフに春が来たヨ」

 至福の笑顔である。

「ルーファスさん…」

「あ、メルヴィンも見る~? たまにはこういう高尚な芸術を読んで、見て、情緒豊かにならないと」

「い、いえ、オレは結構です…」

「そう? まあ興味が出たらテキトーに選んで。全部持ってこれないくらい、棚にギッシリ詰まっててサー。さっすがベルトルド様だよね」

 ソファにドッカリ座り、雑誌を広げ始めるルーファスの横で、フェンリルが首をかしげながら覗き込んでいた。

「フェンリルも興味あるのー? そうだよねー、フェンリルも男だよねえ。でもこれ雌犬の写真は載ってないからなあ。――これいいだろう、うんうん、たまらん」

 一人愉しそうなルーファスを見て、メルヴィンとキュッリッキは疲れたように溜息をついていた。