片翼の召喚士 ep.67 与えられた愛
翌朝目が覚めると、ベルトルドとアルカネットは部屋にいなかった。時計を見ると7時を少し過ぎている。6時には目を覚ますキュッリッキにしてみたら、ちょっと寝坊だった。
何度か目を瞬かせていると、頭もスッキリしてきて、昨夜のことを色々と思い出していた。
こんな自分を愛してくれたベルトルドとアルカネット。これからは、もう寂しい思いをしなくていい。そして、ベルトルドとアルカネットの2人には、何も隠し事をしなくても大丈夫。辛いことも悲しかったことも、全部打ち明けられる。それにライオン傭兵団にもずっと居られるし、居場所を失うこともない。
「アタシ、もう独りじゃない。ベルトルドさんと、アルカネットさんと、ライオン傭兵団のみんなと一緒なんだ」
エヘッとキュッリッキは弾んだ声を出して笑った。
急に世界が開けたような気がして、怪我などしていなければ、飛び上がって踊りだしそうな気分である。
それは他人から見れば、ささやかで小さな幸せなのかもしれない。でもキュッリッキには何ものにも代え難い、大きな幸せを掴んだ気持ちで心がいっぱいに満たされていた。
ベルトルドは着替えが下手だった。脱ぐのは得意だが、軍服や着こなしが必要な衣服を身につけると、見事に着崩れてしまう。意図的にそうしているわけではなく、天然で崩れるのだ。
そのため着替えに時間がかかるので、ベッドにしがみついて起きようともしないベルトルドを、アルカネットは魔法で引き剥がし、ベルトルドの部屋へと連れてきていた。
寝ぼけ眼をこすりながら、ベルトルドは軍服を着る作業に取り掛かる。アルカネットがテーブルの上に順番に並べていたので、それを着るだけなのだが。
「どうしてアナタは、毎日同じ作業をしていて、上達しないのでしょうね…」
「人間誰しも得意不得意はあるもんだ。それに、俺は脱ぐのは得意だぞ。あと女の服を脱がすのも大得意だ!」
フフンッと偉そうに笑う。
「そうでしょうとも。あれだけ御乱行していれば。素っ裸で帰ってくることも多かったですしね」
「…もう俺は、女遊びは辞めたんだ!」
「別に辞めなくてもいいのですよ? お好きなだけ女を取っ替え引っ替えして遊んでいればいいのです。リッキーさんには私がいますから、安心してくださいな」
「余計安心出来るかっ!」
ようやく軍服を全て身に付け、鏡の前に立つ。
雑に着たベルトルドの軍服を直しながら、アルカネットはホッとした表情で言った。
「それにしても、リッキーさんの心を救ってあげることができて、本当に良かったですよ」
「まだだぞ」
「え?」
真顔になるベルトルドの顔を見つめ、アルカネットは首をかしげる。
「救ってあげられたのは、まだほんの表面だけだ。本当の意味で救うことになるのは、これからだ」
「確かに、言葉にして伝えただけに過ぎませんが…。まだ何か、彼女の心に問題があるのですか?」
「お前にも見せただろう、リッキーの過去を。俺たちが考える以上に、リッキーの心の傷は深いんだ。愛を伝えただけで、そう簡単に癒せるほど軽いものじゃない。お前も本気でリッキーを愛しているなら、覚悟しておけよ」
眉間を寄せたアルカネットに、ベルトルドは頷いた。
「俺たちは愛という鍵を使って、リッキーが忘れようとしていたものを収めた心の奥底の扉を、無理やりこじ開けてしまったんだからな」
メイド総出の身支度と、ヴィヒトリ医師の手当と診察が終わると、朝食の膳を持ってメルヴィンが部屋に入ってきた。
「おはようございます、リッキーさん」
「おはよう、メルヴィン」
キュッリッキの顔を見るなり、メルヴィンは表情を曇らせた。
「どうしたの? メルヴィン」
メルヴィンの表情に気づいて、キュッリッキは不思議そうに目を瞬かせる。
「い、いえ。何でもありません」
表情に出してしまったことに小さく苦笑して、メルヴィンはベッドの傍らの椅子に座った。
「少しでもいいから、食べませんか?」
昨日と同じ匂いがするスープと、グルーエルの皿が膳にのっていた。
「うん、じゃあ、ちょっとだけ」
「はい」
メルヴィンは優しく微笑むと、サイドテーブルに膳を置いて、キュッリッキの身体を少し起こしてやる。シーツや寝間着を汚さないように、ナフキンを敷いた。
スープの皿を手に取り、スプーンをキュッリッキの口に運ぶ。
「うわあ、美味しい」
水と薬以外の食べ物を口に入れるのは、とても久しぶりである。口の中いっぱいに、染み渡るようにコンソメの味が広がった。そしてほんのわずかに中薬の風味がする。コンソメ味の薬膳スープだ。
「もう少し飲めますか?」
「うん。全部飲めるかも」
「良かった。さあ、どうぞ」
「ありがとう」
急に食欲が沸いてきて、スープが喉をどんどん通り過ぎていく。少なめに盛られてはいたが、スープは全て胃袋におさまった。
グルーエルはふた口ほど食べて、キュッリッキはもう満腹感を得てしまった。
たとえ量は少なくても、何かを食べてくれたことに、メルヴィンは心から安堵した。キュッリッキが食事をしているところを見るのは、ナルバ山に出かける前のことだったからだ。
「久しぶりのご飯美味しかった」
キュッリッキは至極満足そうに微笑んだ。
「良かったです。どんどん元気になりますね」
「うん」
「あとで、食べたいものなどありますか?」
「んー…」
今は満腹だから、とくに思いつかなかった。それを正直に言うと、
「では、リッキーさんの好きな料理ってなんですか?」
そう聞き返された。
「料理? 料理……生野菜じゃなければ、普通にどれも食べられるかなあ。ムースは好きかも。レモン味とかオレンジ味の」
「なるほど、判りました」
メルヴィンは微笑み、あらかじめヴィヒトリから渡されていた痛み止めの薬を、キュッリッキに飲ませた。
キュッリッキを寝かせ直して、メルヴィンは膳を下げに一旦部屋を出た。そして戻ってくると、キュッリッキは眠っていた。
穏やかな表情で眠っているが、目はまだ腫れている。よほど、沢山泣いたのだろう。隣の部屋にいたメルヴィンにも、泣き声はずっと聞こえていたのだ。
昨夜、夕食を早めに済ませたメルヴィンとルーファスが戻ると、閉ざされた扉の向こうからキュッリッキの泣き声が聞こえてきた。かなりの大声で泣いているのだろう、廊下にまでその声は響いていた。
不安になってノックをして入ろうとした矢先、扉が開いてアルカネットが顔を出して、
「今日はもういいですから、おさがりなさい」
そう言われ今に至る。
何事があったのか問いただしたかったが、昨日とは打って変わり、憑き物が落ちた表情(かお)をしていた。それでなんとなく聞きそびれてしまったのだ。
律儀と真面目が取り柄のメルヴィンは、一つのことが気になりだすと、解決するまでトコトン気になってしまう。
何故あんなに目を腫らすくらい泣いていたのか、その理由が気になってしょうがない。
別に自分が原因ではないのは判っている。それでも無性に気になってしまうのは、今の自分は、キュッリッキを慰め、励ます役割を任されているからだ。
あの遺跡の中で、血溜まりに身を浸し、息も絶え絶えになっていたキュッリッキを、励ますことしかできなかった。
ただ横に座り込み、冷えていく手を握り、話しかけていただけだ。
ランドンやカーティスたちが、必死で止血や痛みを和らげようと魔法を使っていたとき、何も出来ていなかった自分が悔しい。魔法も医療もスキル〈才能〉が違うのだからしょうがないにしても、なにかもっと別に、キュッリッキの助けになることが出来なかったのだろうか。
彼女に何一つしてやれていないことが、メルヴィンの気を塞いでいた。
ベッドの傍らの椅子に座り、キュッリッキの顔を見つめる。
初めてアジトに来た時は、美しく愛らしい顔は緊張で強張り、本当にこの先やっていけるのかと心配になったほどだ。しかし1週間ほど経つと、少しずつだが余裕も見え始め、さあこれからだ、といった矢先に大怪我を負ってしまった。
仕事の時の、生き生きとした笑顔を思い出し、キュッと胸が締め付けられる。
何度見ても見飽きない、素敵な笑顔だった。
「リッキーさん…」
切なげに呟いて、ひっそり溜息をこぼしたところで、扉がノックされてルーファスが入ってきた。
「ただいまっ」
「おかえりなさい。みんなの様子はどうでしたか?」
「どっと疲れてたけど、とりあえず平気そう。ただみんな、キューリちゃんの様子が気になってしょうがないって感じだったネ」
「そうですか…」
ルーファスは早朝に屋敷を出て、エルダー街のアジトへ様子を見に行っていた。
みんな顔に疲労を貼りつけながらも、しっかりと朝食は摂っていた。
「どう? キューリちゃんの様子は」
「ええ、さっき少し朝食を摂ってくれました。機嫌も良かったですし、痛み止めの薬を飲ませたあと、こうして寝てしまいました」
「そっかあ」
ルーファスも昨夜のことは気になっている。しかもベルトルドとアルカネットにガッチリガードされていたものだから、のぞき見もできなかったのだ。
「ベルトルド様とアルカネットさんに、悪さされた、とかじゃあないよねえ~?」
「そんなことをされた後の態度には、見えませんでしたね…」
2人は苦笑いをしながら溜息をこぼす。
「エッチなことされてたら、さすがにオレらにも話しづらいだろうし、まあ、おっさんたちを信じるしかないってのがねえ」
「イコールそういうふうにしか思えないあたりが、情けない気がしてなりません」
「だってサー、アルカネットさんはともかく、ベルトルド様だよ~。貴婦人たちは取っ替え引っ替え、風俗店にも足繁く通い、愛読書はエロ本だよ」
「ほ、本当なんですか…?」
「ウン。何年か前にエルダー街にあったストリップ劇場、アレ買い取っちゃったもん」
「……」
この場にベルトルドがいたら、殺されそうなことをルーファスは平然と言った。
「まあ、キューリちゃんこんなに可愛いけど、色気がナイからなあ~」
「それが、唯一の救いでしょうかね…」
自分でそう言っておいて、メルヴィンは頭を激しく横に振る。気にするのはそこではない。
「オレちょっと、ベルトルド様の部屋行ってくる」
「え?」
「棚の中にベルトルド様秘蔵のエロ本いっぱい見っけちゃってさ。何冊か持ってくるね~」
そう言って、ルーファスは鼻歌を奏でながら部屋を出ていった。
「リッキー、リッキー!」
「リッキーさん!」
声がして、更に身体が揺さぶられ、キュッリッキはハッと目を開いた。部屋の中はまだ暗く、明かりが横から感じられて目を向ける。ベッドサイドのランプが、頼りなげな光を放っていた。そして人の気配が左右からして、男が2人、覗き込んでいた。
「大丈夫か? リッキー」
覗き込んできながら、心配そうな声を出す男を凝視する。
キュッリッキは暫く男を見ていたが、やがて表情を険しくさせ、男を睨みつけた。
「アタシに近寄るな!」
キュッリッキは大きな声で怒鳴った。
「アタシのことを虐める大人なんて大っ嫌いなんだ!」
一息に言って、ハァ、ハァ、と何度も息を荒く吐き出す。そして目の前の男を突き飛ばしてやりたくて、身体を起こそうとした。
「動いてはダメだ!」
「離せええっ」
「リッキー!」
「触るなああああああああ」
包帯でキツく縛られている右半身は動かないが、左半身で精一杯の抵抗を試みる。足も大きくばたつかせ、押さえつけてくる男たちの手から逃れようと必死になった。
「傷口が開いてしまいます、落ち着いてください、リッキーさん」
もう一人の男は慌て、どうしていいか判らず右往左往状態だ。逆に、先程から話しかけてくる男は、冷静な表情でキュッリッキを見据え、そして何度も優しく話しかけ続けてきた。
「俺だ、リッキー、ベルトルドだ。リッキー」
同じ言葉を辛抱強く言い続ける。
10分ほどそんな状況が続いたが、やがてキュッリッキはくたりと動かなくなり、ジワジワと目尻に涙を浮かべると、しゃくり上げながら泣き始めた。
「ごめん…なさ…い…ごめ…」
「ヨシヨシ、良い子だ」
大きな声で泣くキュッリッキの頭を、ベルトルドは腕に抱いて、もう片方の手で優しく頬を撫でた。
正気に戻ったキュッリッキを見て、アルカネットはホッと胸をなでおろした。
眠りについて暫くすると、苦しそうな唸り声が聞こえてきて目を覚ました。そして隣を見ると、顔に大汗を滲ませながら、キュッリッキが唸っていた。ベルトルドも目を覚まし、2人がかりでキュッリッキを目覚めさせようとして、今に至る。
段々と泣き声も小さくなり、何度かしゃくりながら、キュッリッキは水底に沈んでいくように目を瞑る。
「ベルトルド様、これは一体…」
キュッリッキが眠ったのを確認してから、アルカネットは声を顰め、怪訝そうにベルトルドを見る。
「辛い過去を、夢にみていたようだ」
「…夢、ですか」
「よほど辛いことだったのだろうな。泣き出すまで、俺のことが判っていなかった」
横になったベルトルドは、手を伸ばしてキュッリッキの頭をそっと撫でてやる。表情がやるせなく歪んだ。
ベルトルドの顔を見て、そしてキュッリッキを見る。アルカネットは小さく息を吐くと、再びベルトルドに目を向けた。
「……昨日仰っていたことは、このことだったのですか」
「ああ、そうだ」