片翼の召喚士 ep.61 幼き日の残滓(2)
ある日、裏庭の岩の上に座り少女はぼんやりと空を眺めていると、修道女に声をかけられた。
「キュッリッキ」
しかし少女は反応しない。
修道女がもう一度強く名を呼ぶと、少女はハッとしたように顔を向けた。
「ごめんなさい、クリスタさま」
少女は慌てて岩から降りて、クリスタの前に立った。
クリスタと呼ばれた修道女は、眉間に皺を刻んだ顔に不快感を貼り付けたまま、キュッリッキと呼んだ少女を見おろした。
この修道院の院長である。そして、少女――キュッリッキの名付け親でもあった。
「明日、急遽カステヘルミ皇女殿下がお見えになることになりました。殿下は当修道院に多大なご寄付を約束してくださっております。そして視察のために、御足をお運びになります」
ありがたいことです、とクリスタは深く頷いた。そしてクリスタは厳しい表情になると、キュッリッキを鋭く睨みつけた。
「いいですか、あなたは明日、殿下がお帰りになるまで、部屋を一歩も出てはなりませんよ」
どうしてですか? とキュッリッキは言わなかった。
以前もどこかの貴族の貴婦人がやってくるというので、同じように部屋にこもっていろと言われたことがあるからだ。
片翼の奇形児と有名なキュッリッキは、他の同族たちにとって、不快感の塊とみなされているからである。
それを骨の髄まで思い知っているキュッリッキは、黙って頷き、そして俯いた。
翌日、皇女御一行様が訪問した合図の鐘の音が、奇岩の上に鳴り響いた。
キュッリッキは言われた通りに、部屋の中でおとなしくしていた。しかし昼近くになり急に尿意をおぼえ、我慢しきれず部屋を出てトイレに駆け込んだ。
幸い誰ともすれ違わず、無事用を足せて部屋へ戻る途中、運悪く皇女御一行と廊下でばったり出くわしてしまった。
「あっ」
突然現れた孤児に、先頭を歩いていたカステヘルミ皇女が、面白そうにキュッリッキに目を向けた。
「お前はさっきの子供たちの中にいなかった。どこに隠れておいでだった?」
咎めるでもなく怒っているふうでもない。ただ不思議そうに訊ねられ、キュッリッキはしどろもどろに辺りをキョロキョロ見回した。
皇女の背後に控えていた修道女たちの表情が、みるみる怒りの色に染まっていく。
「えっと…えっと」
本当に慌てふためいて困り果てるキュッリッキに、カステヘルミ皇女は面白そうに笑い声を立てた。
「おおかた、つまみ食いでもしておったのであろう」
愉快そうに言われ、笑われたことにキュッリッキは真っ赤になって俯いた。
「おや?」
カステヘルミ皇女はキュッリッキの背に視線を向け、不快そうに眉を寄せた。
「お前、みっともない翼をお持ちだね。そして虹の光彩を持つもう片方の翼…。もしや数年前に噂になった、召喚スキル〈才能〉を持つあの奇形児か?」
言って修道女たちを振り返る。修道女たちは恐縮しながら汗を浮かべていた。
「さようでございます、殿下」
「本当に虹の光彩を翼にもまとわせているのだな。珍しいものを見た」
そう淡々と言って、カステヘルミ皇女は歩きさってしまった。
後に残されたキュッリッキは、ホッと胸をなでおろした。しかしその晩すぐに院長室に呼び出され、厳しい叱責と体罰を受けた。
「もしお前のせいでご寄付をいただけなかったら、明日から子供たちをどう食べさせてやったらいいのか、困るところだったよ!」
鬼のような形相のクリスタは、黒い革の鞭でキュッリッキの身体中を打ち叩いた。打つ力に加減はなく、渾身の力を込めて振るい続けた。ビシッ、ビシッと室内に痛い音が鳴り響く。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
身体を丸め、キュッリッキは痛みに耐えかねて泣きじゃくった。やめて欲しくて必死に謝る。叩かれるたびに、焼けるような信じられない痛みが襲い掛かった。しかし院長もそれを見るほかの修道女たちも、冷たくキュッリッキを見下ろすだけだ。
裂けた傷口から血が滴り落ちるほど、散々鞭打たれた。
小さな身体が血の塊になるほど打って、クリスタはようやく落ち着きを取り戻した。足元には、ぐったりとしたキュッリッキが転がっている。
「さっさと起きるのです! この愚図っ」
つま先で腹を蹴られて、キュッリッキは失いかけた意識を取り戻す。
血まみれの弱った手足に必死に力を込めて、何度も倒れながら起き上がる。涙と血でぐじゃぐじゃになった顔をクリスタに向けると、まるで穢らわしいものでも見るような目で見返された。
「部屋へお戻りなさい、この欠陥品」
最後に心に深い傷をつけられ、キュッリッキは手当を受けることなく、重い足を引きずり何度も転倒しながら部屋に戻った。
院長室を後にするとき「死んじゃえばいいのよ…」と囁きあう声が、露骨に背中に投げつけられた。容赦のない言葉の数々に、キュッリッキの心はますます傷ついた。
薄暗い部屋に戻ると、キュッリッキは毛布の上にドサッと倒れた。
夜気の冷たさに小さな身体は冷え切り、傷口もじくじく痛んで、あとから涙がぽろぽろ頬をつたった。
傷が痛んで悲しいのか、修道女たちの心無い仕打ちが悲しいのか、自らの境遇が悲しいのか。あまりにも悲しいことばかりで見当もつかない。
暫くすると、突如室内に柔らかな光が満ちて、そこに1人の老人が姿を現した。
「なんと、惨いことをする…」
老人はその場に座ると、キュッリッキの小さな身体を膝の上に抱き上げた。
傷ついた身体にそっと手をあてると、柔らかな白い光が小さな身体を包み込む。
「…あったかいの」
キュッリッキは小さく目を開けると、顔を上げて老人を見上げた。
「ティワズさま…」
老人は優しく微笑むと、キュッリッキの頭を優しく撫でた。
「もう、いたくないの。ありがとう」
キュッリッキがそう言うと、老人は小さく頷き、キュッリッキを毛布の上にそっと戻した。
傷だらけで血まみれだった小さな身体は、どこにも傷跡がなく、切り裂かれた粗末な服も元通りだった。
やがて老人は空気にかき消えるように、姿を消していた。
しばらくの間キュッリッキは動かず、じっと横たわっていた。
身体の傷は癒えていたが、心の傷は少しも癒えていない。小さな心は無惨なほどに傷だらけなのだ。
動かないキュッリッキの鼻を、仔犬がペロリと舐めた。
「くすぐったいの」
こそばゆくって、キュッリッキはクスクスと笑った。
仔犬はもう一度キュッリッキの鼻を舐めたあと、胸のそばで丸くなった。
寄り添ってくれる仔犬のぬくもりだけが、キュッリッキの心に優しかった。
「ありがとう…フェンリル」
「リッキー、リッキー」
「は…っ」
荒い息を吐き出して、キュッリッキは我に返った。顔を横に向けると、ベルトルドが心配そうにじっと見つめている。
「怖い夢でもみたのか? 泣いているではないか」
ベルトルドは上半身を起こすと、涙を拭おうと手を伸ばす。しかしキュッリッキは「いやっ」と言って顔を背けた。
「リッキー?」
キュッリッキは怯えた獣のような目を、キッとベルトルドに向けた。
全てを拒絶する気迫が小さな身体から滲み出し、ベルトルドはたまらず息を飲んだ。
(なんて目をするんだ…)
やがてキュッリッキは逃げようとして、身体を起こそうと動き出した。もとから力が入らない右上半身は、包帯できつく固定され自由にならない。左半身でなんとか起き上がろうとしたが、うまくいかず、それはすぐにベルトルドに押さえ付けられてしまった。
「離せっ!」
「落ち着け、動いたらダメだ」
困惑するベルトルドに、キュッリッキは更に噛み付くような勢いで叫ぶ。
「お前たち大人なんか大っ嫌いだ! 触るな!」
「リッキー!」
「気安く呼ぶな! アタシは独りでも平気なんだ、離してよっ」
キュッリッキはとにかくもがいた。ベルトルドが自分の身体に触れていて、吐き気と怖気に襲われる。
(この男はあの修道院の大人たちのように、アタシのことを鞭で打ったり、酷い言葉を投げつけてくるに違いないんだ。優しいフリをしているだけなんだから!)
騙されてなるものかと思った。
今のキュッリッキは、過去の辛い思い出に心を支配されていて、ベルトルドのことが判らなくなっていた。そして怪我をしている事も忘れている。
「このままでは傷口が開いてしまう…」
キュッリッキは信じられないほどの力で抵抗してきた。一体どこにこんな力があるんだと、ベルトルドは驚きながらキュッリッキを押さえつけていたが、少しもおとなしくならない様子に小さく舌打ちすると、サイ《超能力》を使ってキュッリッキの気を失わせた。
ぐったりと静かになった身体をそっと寝かせ直し、ベルトルドは沈痛な面持ちでキュッリッキに頬擦りした。
「なんと惨い、幼い時分を生きてきたんだ、この子は…」
ベルトルドの使えるサイ《超能力》は能力全般で、相手の記憶や考えを〈視る〉力もある。強すぎるその力は時に無意識に働くことがあり、近くにいる者の思考や記憶が勝手に流れ込んでくることもあった。
キュッリッキが思い起こしていた過去の記憶が、眠っていたベルトルドに流れ込んできたのだ。
あまりにも強すぎると、気持ちや想いに同調しそうになる。深く引きずられそうになり、ベルトルドは慌てて遮断したほどだ。
キュッリッキの辛い過去の一端を視て、苦いものが胸中にこみ上げ、かきむしりたいほど圧迫した。切ないほど苦しく、どうしていいか判らず、叫びたい衝動にかられる。
「俺が、浅はかだったな…」
考えていた以上に、キュッリッキの心の傷は深い。そのことを、ベルトルドはあらためて痛感した。
召喚スキル〈才能〉を持つ者が、フリーで傭兵をしていると聞きつけてきたのはアルカネットだった。
ベルトルドもアルカネットも、宮中で召喚スキル〈才能〉を持つ者たちを何度も見ているので、どうせその程度か、単に魔法使いが使い魔を呼び出しているところを目撃して、勘違いしたのだろう。そう思って取り合わなかった。
そもそも召喚士が傭兵をしていること自体が有り得ないことであり、前例はなかった。何故なら、スキル〈才能〉判定が行われて召喚スキル〈才能〉があると判明すれば、家族ごと国の保護下に置かれる。それは3種族共通のことだ。そうなると、一般の目に触れる機会などまずない。
しかし、凄い力を持っているという噂がなかり出回っているので、真偽の程をアルカネットに確かめさせた。すると、そのことは事実であり、興味を覚え徹底的に調査を命じた。
生まれ落ちてすぐ名前も与えられず、家族から捨てられた召喚スキル〈才能〉を持つ女児はアイオン族で、その名をキュッリッキといった。引き取り先の修道院で、名を与えられたらしい。
どんな理由が有るにせよ、子供を捨てた事実が公になっていれば、人道的にも問題視され、ハワドウレ皇国なら投獄されるほどの重い罪になる。それなのに、公になっているうえで、イルマタル帝国は親の蛮行を賛美し、アイオン族総出で親の蛮行を称えた。
アイオン族は美醜を非常に重んじる。ヴィプネン族やトゥーリ族からみれば、常軌を逸しているレベルだが、本星に住むアイオン族にとっては重要なことだった。
キュッリッキは生まれつき片方の翼がない。そのことで両親に捨てられたのだ。そして両親は隠さず公にした。そのため惑星ペッコに留まらず、他惑星に住むアイオン族にも伝わっている。
惑星ペッコのアイオン族は非道な行いをした両親を賞賛したが、他惑星のアイオン族は当然軽蔑した。かつての悪習が取り払われた今でも、惑星ペッコのアイオン族の心に暗く深く根ざし続けていた結果だった。
差別や蔑みを受け続ける中でもっとも残酷だったのは、両親から捨てられた事実と理由を、キュッリッキが知っているということだ。
物心つく頃から隠されることなく、周囲から言われ続けてきた。
それらの非道に、どれほど心を痛めたことだろう。
アルカネットからの報告書を読んで、ベルトルドは底の知れないほどの怒りを覚えた。それはアルカネットも同様だった。
これまで定住地を得られなかったのも、この過去のことが大きく影響していたのだろう。それは易易と想像出来ることだった。過去のことを思い出しただけでこの様子である。
自分の過去を打ち明ける相手もおらず、受け止められるだけの度量を持った相手にも出会えなかった。必死に生い立ちを隠して生きようとしても、些細なことで蒸し返して感情のコントロールがきかなくなれば、何も知らない周囲の人間たちには手の施しようもなく、離れていくだけだ。 そしてまた心に傷を作り、蓄積されていく。
この18年間ずっと、キュッリッキは救われずに生きてきたのだ。
「リッキー…」
ベルトルドは眠るキュッリッキの頬を、優しく撫でる。
初めて会った時の様子を思い出し、ベルトルドは痛いほど胸が締め付けられた。
緊張していた顔、戸惑っていた顔、額にキスをされて真っ赤になっていた顔、無邪気に笑っていた顔、興味津々の顔。そのどれもが愛らしく、愛おしく、ベルトルドの心を騒がせた。
美しい顔立ちもそうだが、純粋な笑顔に惚れた。
心に深い傷を持っていると知っても、23歳も年の離れたこの少女を、心から愛してしまったのだ。
幼い頃、密かに淡い初恋のようなものをいだいたことがある。それは実ることなく終わったが、ベルトルドは41歳になって改めて恋をした。
今度はきっちりと、恋をしたと自覚できる。
これまで星の数ほど色んな女たちを相手にしてきたが、本気になったことも、本気になりかかったこともない。適当に遊んで捨てていった。
ベルトルドにとって女とは、性欲のはけ口にしかすぎず、恋をしたいと思ったこともない。それなのに、キュッリッキには本気で恋をしてしまったのだ。
23歳も年下の少女を、どう扱えばいいのかベルトルドには自信がなかった。子供を持った経験もないし、セックスフレンドにここまで若い娘はいなかった。
今は身体も傷つき、ずっと心に深い傷を負い続けている。
果たして自分の愛で、癒すことができるだろうか?
「いや、癒してみせるさ」
腹の奥底から、ジワジワと熱いものがこみ上げてくる。
「この俺の海よりも深い愛で、リッキーの心の傷も全て癒す! そして俺の愛でいっぱいに満たし、俺以外の男に見向きもしないほどガッチリ心をつかみ、毎晩俺だけを求め甘え濡らすほどに教育する!」
握り拳をガシッと握り締め、ベルトルドは明後日の方向へ強く頷く。
「胸がペッタンコだろうと愛の前にはなんの障害でもない! 揉んで揉んで膨らむくらいに揉んで揉み尽くせば、ちっぱいなど気にもならん」
眠るキュッリッキの胸元に視線を貼り付け、ベルトルドは勝手に納得する。キュッリッキにとって『ちっぱい』が禁句だということは知らない。
「それにしても、本当に可愛らしい。全てが愛おしい」
艶やかな金の髪も、白桃のように白い肌も、小柄で華奢な身体も。そして、あれだけ深い心の傷を抱えながら、それでも愛らしい笑顔を浮かべることができる純粋さ。
性欲を満たして満足したあと捨てた女たちのように、今度は捨てる気はない。傷ついたこの小鳥を、嫌がっても抵抗してきても、籠に閉じ込め手元に置いておく。
「俺の愛に抱かれれば、もう二度と辛い思いをすることもない。悪い夢だったと思わせてみせるぞ、リッキー」
キュッリッキの寝顔は悲しみに満ちているように見えた。流れ込んできた幼い頃のキュッリッキの姿が重なり、抱きしめてやりたかった。そして静かな寝息をたてるその柔らかな唇を見つめていると、吸いつきたい衝動に襲われ、顔を近づけては背け、再び向けては背けを繰り返す。
(アルカネットに先を越された、アルカネットに先を越されたっ!!)
そのことが、一番悔しい。
(あんにゃろおおおおお)
「何をしてるのです」
「いででででっ」
いきなり耳を思いっきり引っ張り上げられ、ベルトルドは強烈な痛みに軽い悲鳴を上げる。
「アルカネットかっ! 痛いからヤメロ」
自分の屋敷でこんな無礼を平気で働くのはアルカネットしかいない。しかしさらに耳は引っ張られ、大の男の身体が易易と持ち上げられた。
アルカネットは無表情のままベルトルドの耳を掴んでいたが、やがてパッとはなす。その拍子に、ベルトルドは顔面からベッドに倒れ込んだ。
「ふがっ」
「全く、目を離しているとすぐコレですから、困ったものです」
「……」
ベルトルドはのろのろと身体を起こし、ベッドの上にぺたりと座った。そして傍らで腕を組んで見下ろしてくるアルカネットを見る。
「早かったじゃないか」
「嫌な予感しかしませんでしたから、文字通り飛んで帰ってきました」