片翼の召喚士 ep.44 蠢く遺跡(4)
叩きつけられるような重みと衝撃が走り抜けたあと、焼けるような痛みに刺し貫かれ、キュッリッキは大きく目を見開いた。
悲鳴をあげた気がしたが、実際は引き攣れた掠れ声が小さく発せられたに過ぎない。
怪物の爪は、キュッリッキの右肩から胸までを、深く切り裂いた。
肉が抉り取られ、骨があらわになり、大量の鮮血が噴き出す。血飛沫と金色の髪が宙を舞い、キュッリッキは仰向けに倒れた。あまりの痛みに気を失うことも許されず、目を開いたまま、キュッリッキの身体はビクンッビクンと痙攣した。
自らの血だまりの中に身を浸し、心の中で必死に叫ぶ。
(痛い…助けて!)
口の中も血で溢れかえり、僅かに開いた口の端を唾液と血が伝う。全身が急速に凍え冷えていく感じがした。
右上半身には激しい痛みはあるのに、他の部位の感覚が麻痺している。手足を動かそうと思っても、ぴくりとも動かない。閉じることもできない目からは涙が溢れ出し、薄暗い天井を凝視していた。
キュッリッキは怪物を見ていなかった。張り付いたように動かない目は天井を見上げるのみだ。
やがて意識が混濁し始め、視界がぼやけだした。
一方、怪物はキュッリッキが流した血の匂いに鼻腔をくすぐられ、なんともいい気分になっていた。
己の爪にこびりついた肉片と血を舐めとると、嬉しそうに目を細める。新鮮で甘い芳しい香りが、口内から鼻に突き抜けていった。
小さな獲物を見下ろし、怪物は生臭い息を吐き出した。もう動くこともできず、血だまりの中で息も絶え絶えになっている。
ぬらぬらと濡れ光る赤黒い肌からは、興奮のためか脂が滲み出し、よりテラテラと光沢を強めた。
怪物は想像する。腹を切り裂いたら、今度は何が見えるだろうと。急に興味が沸いて、それがよりいっそう残忍な興奮につながった。
怪物はキュッリッキの腹に爪先を向ける。
前脚を振り下ろし、腹を切り裂こうとした瞬間、
「ぐっ!」
低い唸り声がして、何かに動きを止められ、怪物は怪訝そうに足元を覗き込んだ。そして突然周りが賑わいだし、なにやら足元に小さい生き物が集まり始めて首を傾げる。
「リッキーさん!! なんてことに」
「キューリちゃん!」
「ランドンさん早く回復魔法を! このままではリッキーさんが」
「判ってる!」
ランドンはキュッリッキの傍らに膝をつくと、両手を肩口にかざした。
「土に流れた毒は 二度と身体に戻らない
胸から流れ出た苦痛も
戻ることなく去らしめよ」
掌から柔らかな光が溢れ出し、傷口を優しく包み込む。
「キューリさん…」
ハーマンは為す術もなく、キュッリッキの周りをほたほたと歩いた。魔法スキル〈才能〉はあるが、回復魔法は得意ではない。この状態で無理に使うのはかえって危険だったからだ。
寸でのところで怪物の攻撃を止めたガエルは、交差させた腕で怪物の前脚を押しとどめながら、肩ごしに振り向く。
「キューリを動かせるか?」
「この様子じゃ今すぐは無理だ。戦う向きを変えてくれ、ガエル」
「了解だ」
ありったけの力を両腕に込め、ガエルは怪物の身体を前方に思い切り押し出した。怪物は後ろによろけ転がって壁に衝突した。そのままガエルは怪物を追い、キュッリッキたちから離れた。
ルーファスはハーマンにガエルのサポートにつくよう指示をすると、すぐさまカーティスに念話を送った。
(それは…)
映像付きの念話を送られ、カーティスは愕然とその場に立ち止まった。ヴァルトらが何事かと足を止める。
(ヤバイぞ、かなりの重症過ぎて。ランドンに止血させてるが、このままじゃ死んじまう)
(わ、我々もすぐに向かいます)
(ああ。ギャリーにはオレから連絡を入れておく)
(判りました)
いつになく狼狽えるカーティスとの念話が終わると、ルーファスはすぐさまギャリーに念話を送った。
急に辺りが騒がしくなり、キュッリッキは小さな声をあげる。
「……だ…れ?」
「リッキーさん!」
ランドンの反対側に膝をついていたメルヴィンは、キュッリッキの顔を覗き込んだ。
ぼんやりとする意識の中、メルヴィンに気づいて声を振り絞る。しかしその声は弱々しく、か細く聞き取れない。
「助け…て」
言葉を発するのが苦痛なのか、血を溢れさせながら小さく唇を動かした。
蒼白なキュッリッキの顔を覗き込みながら、メルヴィンは必死に叫ぶ。
「もう大丈夫ですから、助けに来ましたからね!」
力なく床に置かれていた左手をそっと取って、メルヴィンは励ました。驚く程手は冷たくなっていて、それがよりメルヴィンの不安を煽る。
口を動かしたことで喉に血が流れ込んだのか、むせて激しく咳き込み血を吐き出した。メルヴィンは慌ててキュッリッキの口元をそっと拭ってやる。
「動かないで!」
額に汗を滲ませランドンが悲鳴のように叫ぶ。回復魔法は専門だが、こんなに酷い怪我人を診るのは初めてのことだった。
「おし、みんなに連絡はついた。もうちょっと一人で頑張ってくれランドン。シビルがこっち向かってるから」
「うん」
回復魔法では、怪我や病気自体は治せない。痛みや疲労を和らげ、止血をし、細胞の壊死を防ぐくらいだ。それはどんなに高位魔法を操る魔法使いにも、それ以上のことは不可能なのだ。怪我や病気をある程度治せるのは、医療スキル〈才能〉だけである。
キュッリッキの状態は深刻で、一刻も早く医者による治療が必要だった。こんな大怪我でよく即死しなかったと、褒めてやりたいほどだとランドンは思う。
「メルヴィン、キューリに君の外套をかけてあげて。血が流れすぎてて体温が急激に下がってる」
「そうですね」
頷いてメルヴィンは外套を脱ぐと、そっと下半身にかけてやった。そして再度手を取りそっと握る。
ランドンの回復魔法を受け痛みが和らいだのか、キュッリッキはどこかホッとしたような気分になっていた。でも意識は混濁としていてはっきりしない。
寒くて寒くて、仕方が無かった。
メルヴィンが握ってくれてる手だけが、ほんのりと温かい。
仲間たちの気配を僅かに感じながら、キュッリッキの意識は深い闇へと落ちていった。
「うわあああああ!! なんじゃあこりゃあああ」
開口一番、ヴァルトは仰け反りながら怪物を見上げ叫んだ。怖いというより、素手で触るのも嫌なほどの醜悪な姿に、さすがに一歩退く。
ルーファスの念話の誘導により、皆次々と到着した。
「おい……嘘だろ」
ザカリーはキュッリッキを見おろしながら、上ずった声で呟いた。
傷は深いなんてレベルをはるかに超えている。痛々しいなんてものじゃない。パッと見ただけで、即死レベル級なのだ。こんな状態でよく生きていたと思えるくらいに。
小さな身体を自らの血だまりの中に浸しながら、顔は蒼白となり生気の欠片もない。
ギャリーは沈痛な面持ちで、愕然とするザカリーの肩を叩く。
「落ち込むのは後にしろ。まずは、アレを殺るぜ」
「……ああ」
ザカリーは爪が食い込むほど、拳を握り締めた。
突如増えた小さな獲物たち。先ほど手にかけた獲物とは違い、遊びがいのありそうな獲物がきたと、怪物は喜んだ。
人面はほころばせるような笑みを浮かべていて、怪物の姿はよりいっそう醜悪に映る。
「気持ち悪いな、これ」
漆黒の大鎌を構えながら、タルコットは顔をしかめた。ずっと見ていたら、夢に出てきそうだ。
「よーし! 俺様は決めた! 触るのキモイから、武器組のてめーらに任す!!」
「だったら退いてろ! 邪魔っ」
魔剣シラーを背から取り出したギャリーが、ヴァルトを肩で跳ね除けるように押しだし構える。
「ハーマン、俺の拳に強化魔法をかけてくれ。あんな雑魚、一撃で殴り殺してやろう」
ガエルは拳を構えて気を充実させる。ハーマンは無言で頷くと、小さな掌をかざした。その様子を見て、ヴァルトのこめかみがヒクッと引き攣る。
触りたくないが、邪険にされるのも気に入らず。かといって殴れば、脂ギッシュなあの赤黒い肌に触ることになる。しかしガエルに目の前でかっこつけられるのも腹が立つ。
腕を組んで迷い唸るヴァルトをよそに、ザカリーの放った魔弾が、怪物の両前脚に撃ち込まれた。いきなり受けた攻撃に、怪物は奇声を発しながら、均衡を失って前のめりに膝を折る。
魔弾は前脚の中で爆発したため、傷口から血が噴き出し、前脚が奇妙な形に膨らみ歪んだ。対人間用の威力で作られている魔弾のため、怪物の身体を吹き飛ばすには威力が弱かった。
「ケッ。頑丈だなおい」
ザカリーは忌々しげに唾を吐き捨てた。
それを合図にしたように、タルコットとギャリーが同時に飛び込み、大鎌と大剣が振り下ろされる。
しかし2人の一閃は、切り裂くどころか怪物の肉厚な巨躯に防がれ、筋肉に刀身が食い込み抜けなくなってしまった。
「ちょっ、ヤメテカッコ悪すぎー!!」
「食い込みすぎだろ!!」
ギャリーとタルコットは武器を怪物の身体に食われたまま、宙ぶらりんになって喚いた。怪物は痛みのため身体を激しく揺する。振り落とされまいと、2人はしっかり武器の柄を握り締めた。
怪物の唸り声が、低く大きく広場に鳴り響いた。
「おめーらダッセー!」
2人の無様を指差し、ヴァルトは腹を抱えてゲラゲラ大笑いした。
「笑ってねーで、助けやがれ!」
振り回されながらも、ギャリーはドスの効いた声を出して怒鳴りつけた。自分でもコレは格好悪いと思っているから、つい顔が赤らんでしまう。
「よし、いいよガエル」
強化魔法をかけ終わり、ハーマンは下がる。
「いくぞ」
低く呟き、ガエルは腰を落とすと、床を蹴って飛び上がり、怪物の脳天に渾身の一撃を叩き込んだ。
ずしりとした重たい衝撃が、怪物の全身を貫く。頭部が深くめり込み、その反動で眼球が飛び出しかかった。目からは血が弾け、怪物は耳障りな悲鳴をあげて、唾液を撒き散らした。後脚も力を失い、腹ばいのような格好になって床に沈む。
筋肉の拘束がほどけ、ギャリーとタルコットは武器と共に投げ出されるようにして解放された。そこへすかさずザカリーの魔弾が連射で額に撃ち込まれ、貫通せず魔弾は怪物の頭内で炸裂した。
爆発の衝撃は頭皮に守られたのか、突き抜けずにボコボコと頭部に瘤をいくつも作った。それでもまだ、怪物は生きている。
「ゴキブリみたいな生命力だなあ」
ヴァルトは心底感心したようだった。
目や耳、鼻の穴や口から血を噴出しながらも、怪物はくぐもった声で唸りながら、なんとか起き上がろうとしている。
「あんな化け物は相手にしたことがないから、力の加減がよく判らんな…」
さがったガエルは、怪物を殴った感触の残る拳を見つめる。やたらと頭皮と筋肉の壁が厚かった。普通の人間が食らっていたら、間違いなく頭部は破裂する威力である。一撃で粉砕できなかったことに、僅かながらプライドを傷つけられていた。
そんなガエルの様子を見て、ヴァルトは「ふん」と鼻を鳴らした。いつもなら茶化したり馬鹿にするが、ガエルの渾身の一撃で沈まなかったということは、ヴァルト自身でも難しいと判っているからだ。
敵対心は燃やしていても、ガエルの実力は認めているヴァルトなのだ。
「剣も拳も通りにくいなら、あんなの燃やしちゃったほうがいいね!」
脳筋組みの戦いを黙って見ていたハーマンは、待ってましたとばかりに魔法の媒体にしている本を開く。
「火花と火炎を撒き散らし
猛り狂いて焼き尽くさん」
赤赤とした炎の塊が、ハーマンの頭上で膨らみながら、大きな丸い炎に形成されていく。
その赤い光に気づいて、振り向いたシビルが「げっ」と表情を引きつらせる。
「一時的に結界張ります!!」
「エルプティオ・ヘリオス!」
詠唱が完了すると、巨大な炎の塊はスッと怪物のもとへ飛んでいき、怪物の体内に吸い込まれていった。突然体内に高熱が発生して、怪物は絶叫をあげる。
その様子を確認して、ハーマンは小さな指をパチリと鳴らした。すると怪物の身体がデコボコと歪みだし、全身から火を噴きながら大爆発した。
爆発の勢いで吹き飛ばされた血肉が、ビチャリと広場に四散する。辺りには焦げた肉の不愉快な臭いが漂う。
キュッリッキの周囲はシビルが防御結界を張っていたので無事だったが、脳筋組はモロにかぶって大騒ぎになった。
殴るのを嫌がったヴァルトは、内蔵のような一部を頭からかぶって、文句も出ないほどゲンナリと肩を落としていた。殴らなくてもこれでは意味がない。
「他に、魔法はなかったのか、ハーマン…」
恨めしさを乗せたギャリーの呟きが、ひっそりとハーマンの背筋を撫でる。
「いやあ……汚いから、火で燃やしちゃえ~って思ってつい……」
えへへっと可愛く笑い、自分だけは防御結界で無事だったハーマンは、尻尾を丸めてそそくさとキュッリッキのもとへ逃げていった。