【小説】片翼の召喚士-episode068

chapter-4.記憶の残滓編
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記憶の残滓編-episode068 【片翼の召喚士】

 ハッと目を開け、キュッリッキは荒い息を何度も何度も吐いた。目からは涙がとめどなく流れ落ち、胸が苦しくてたまらない。

 そうしているうちに、今は夢ではなく現実なのだと、ようやく認識できていた。

「フェンリル……フェンリルどこ?」

 涙声で、弱々しく相棒の名を呼ぶ。

 長椅子に置かれた青い天鵞絨張りのクッションに寝ていたフェンリルは、キュッリッキの声に目を覚ますと、素早く駆け寄りベッドに飛び乗った。

 白銀の毛に覆われた顔を、キュッリッキの頬に労わるように何度も摺り寄せる。

「フェンリル…」

 フェンリルの頬ずりに安堵し、キュッリッキの呼吸もだんだんと落ち着いてきた。

「幼い頃のことを、夢にみちゃってた…」

 独り言のように呟くキュッリッキの言葉に、フェンリルはそっと耳を立てて聞き入った。

「修道院の崖から突き落とされた時のこと。あの時フェンリルが助けてくれなかったら、アタシ、死んじゃってたよ」

 アルッティに突き飛ばされ、崖の外に弾かれたキュッリッキの身体は、風に巻き上げられ宙に浮いたあと、真っ逆さまに落下していった。

 落ちていくときキュッリッキの頭の中は真っ白で、何一つ考えられていなかった。轟轟と唸る空気の音と肌を貫いていくような冷たさ。恐怖で塗り固められたように動かない身体。

 もうダメだ! そう思った瞬間、小さな身体は地面に叩きつけられることもなく、柔らかなモノの上でふわっと跳ねて、座る姿勢でそっと着地した。

 急に素足に感じるくすぐったい感触を、小さな掌で何度も摩るように触れる。

 涙で濡れた顔をきょとんとさせ、目を何度も瞬かせた。

「ふぇ……りる?」

 囁くように言うと、獣が喉を鳴らすような声が辺りに轟いた。

 一つしゃくり上げたあと、周りをゆっくりと見渡す。

 目の前には屹立した岩と、後ろには遠く眼下に広がる緑の大地、足元は白銀の広大な地面。

 地面に手を押し付けると、柔らかな温かさが掌に伝わってきた。この感触は紛れもなく――

「フェンリル、おっきくなった」

 キュッリッキは毛並みにボフッと抱きついて、その感触を頬で感じて小さな笑い声をあげた。

 仔犬の姿しか見せていなかったフェンリルが、かりそめの姿を解いて巨狼の身体で顕現したのだ。フェンリルの本体を知ったのは、この時が初めてだった。

「フェンリルがあんなにおっきな狼だって知ったのも、あの時だったね。ずっと今みたいに仔犬の姿をしていたから」

 フェンリルはキュッリッキの顔のそばで身を丸くして、じっと見つめている。

 宝石のような水色の瞳には、労わるような優しい光が揺蕩っていた。

「ずっと一緒に居てくれたから、アタシ生きてこられた」

 突き落とされ一命を取り留めたキュッリッキは、そのままフェンリルと一緒に修道院を黙って出た。戻る気にはなれなかったからだ。以来、一度も近寄ってもいない。

 キュッリッキを突き飛ばしたあの子は、少しは反省をしてくれたのだろうか。気に病んでくれたのだろうか。

 多分、そんなことはもう忘れてしまっているだろう。あの修道院のなかで、キュッリッキは片翼の異端だったから。

 ふと、隣を見てキュッリッキは表情を曇らせた。隣に寝ていたベルトルドが、もう居ない。今は朝7時を過ぎたところだった。出仕のために準備をしているか、朝食をとっているのだろう。

 夜中のことを思い出し、キュッリッキは切なげな溜息を吐き出した。混乱していたとはいえ、ベルトルドに向かって酷い言葉を投げつけた。酷い態度を取った。そして、ベルトルドの困惑していた顔を思い出す。それがチクリと胸に突き刺さった。

「なんてこと、しちゃったんだろ…アタシ」

 自己嫌悪の波が足元からザワザワと押し寄せてきて、深々と息を吐き出す。

 同じ失敗を繰り返さないようにと、自分で決めたはずなのに。また同じことをやってしまった。それも、後ろ盾であり、命の恩人であるベルトルドに向かってだ。

 更に質が悪いのは、ベルトルドは何もしていない。泣いていた自分を心配してくれていただけなのだ。それなのにベルトルドに向かって、暴言を吐いた。

 今まで失敗してきたことを、また繰り返している。

 こんな自分を好きだと言ってくれていたのに、あれではもう、嫌われただろう。嫌われて当然の振る舞いをしたのだから。

 アイオン族の中で、自分がどんな酷い目に遭っていたのか、ベルトルドは知らない。ライオン傭兵団のみんなも――ヴァルトだけはだいたいは知っていたが――知らないことだ。だから、あんな態度をとられて、きっと腹が立ったに違いない。

 過去のことをちょっとでも思い出すと、心がコントロール出来なくなる。駄々っ子以上に感情が乱れ、周りが見えなくなった。そして手がつけられなくなるほど荒れて、気が付けば人は離れ、居場所を無くしていた。

 いつもああして、誰とも破局するのだ。その後激しい後悔と、情けない気持ちでいっぱいになる。またやってしまったと、後悔ばかりで。

 また、また、また、また…。またを何度繰り返すつもりなのか。後悔する前にどうして自制できないのか。同じ反省までも繰り返している。

「フェンリル、またハーツイーズに戻ることになるかも。ごめんね…」

 キュッリッキを励ますように、フェンリルは鼻をクンクンと鳴らす。

 今度はここで、うまくやっていけそうな気がしていた。今まで出会ってきた人達と違う感じがする。そう直感していた。だから、今度こそ頑張ろうと決心したはずだったのに。

 怪我で弱気になっていたのが、マズかったのだろうか。自分に色々言い訳を考えても、もうあとのまつりなのだ。

 横たわったまま、明るい室内を見渡す。

 立派な天蓋付きのベッドで、大人が何人寝られるんだろうと数えたくなるほど広く、その足元の向こう側もとても広い部屋だ。

 大きな窓を覆っていた天鵞絨のカーテンは、タッセルでまとめられ、白いレースのカーテンだけが窓を覆っている。そこから明るい陽射しが通り、天気がいいのが判った。

 広々とした室内は白と青を基調としていて、落ち着いているが可愛らしい雰囲気の素敵な部屋だ。さりげなく配置されている置物や花、カーテンやクッション、テーブルクロスに調度品は、どれもキュッリッキの大好きなデザインや色使いで整えられている。

 青色は寒々しい印象を与えるが、水色や金がアクセントとなって、むしろ愛らしい印象になっている。

 キュッリッキは青色が大好きだ。

 自らの翼で翔けることのできない空の色。水色から青色に深みを増していく、高い空の色。憧れる空の色。

 青色が好きだと言うと、大抵のひとは海の色だと言う。しかしキュッリッキにとっては、空の色が大好きな青色だった。

 あらかじめ勝手にキュッリッキの思考を読んでいたベルトルドが、指示して用意させた部屋であることは知らない。

 ずっと居たいと思えるような素敵な部屋だが、今日できっと追い出される。そう思うと残念だった。

「あんなに優しくしてくれたベルトルドさんでも、きっと、怒っちゃったよね」

 誰でもあんな言葉を叩きつけられ、態度をとられれば、怒って当然。自分だって怒る。

「ハーツイーズのおばちゃんたち以外で、アタシに優しくしてくれた大人だったのに…。アタシってばホント、我慢強さや協調性がナイよね」

 フェンリルに向かって呟くと、フェンリルは小さく首をかしげるだけだった。

「辛い過去を持ってるのは、アタシだけじゃない。誰だって何かを抱えて耐えているのに。――判ってるのに、上手に自分を抑えられない。つい、自分だけが特別みたいに思っちゃうんだ。だから暴発しちゃうのねきっと…」

 世の中には、親から愛情を注がれない不幸な子供がいっぱいいる。捨てられた子供だって、赤ちゃんだっているのだ。だから、自分だけが辛いと思ってはいけないと、幼い頃から言い聞かせている。自分自身に。

 あの修道院にいた孤児たちも、背景はどうあれ親がいないし、親の愛情に恵まれていない。自分だけじゃないのだ。

 そう思っていても、親のことに触れられたり、過去を思い出してしまうと、感情のコントロールが効かなくなる。

「追い出される前に、もう一度ベルトルドさんに会えるかなあ…。会ったら、ごめんなさいって謝るの」

 強さを増していく朝日とは反対に、キュッリッキの心をどんよりとした重いものが覆っていった。