【小説】眠りの果てに 眠りの果てに得たもの

眠りの果てに(完結)
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最終話:眠りの果てに得たもの

 冷たい床に座り込み、床についた手の甲を、インドラは穴が開くほどに見つめていた。

(どうすればいいのでしょう……どうすれば)

 自分の命をかけるからこそ、人ならざる奇跡を生み出せる魔女。単に、願いを叶えたんだから報酬をよこせ、と言っているわけではないのだ。

「インドラ」

 そこへ、とても静かに優しく名を呼ばれ、インドラはハッと顔を上げた。

「アンジェリーン」

 シャツにベストというラフな、いつもの格好のアンジェリーンが、インドラを優しく見つめ立っている。その表情はとても穏やかだ。

 アンジェリーンはインドラの前に両膝をつくと、両手でそっとインドラの双肩を掴む。そして、ゆっくりと立ち上がらせた。

「ありがとう。ボクのために、ここまで追いかけてきてくれたんだね」

 されるがまま、抱きしめられて、インドラはポロポロと涙をこぼした。沢山言いたいことがあるのに、のどに詰まって言葉が出ない。優しく頭を撫でてくれるアンジェリーンの掌のぬくもりが心地よかった。

「魔女の契約が、そんなに重いものを含んでいるなんて、ボクも知らなかった。だから、もういいんだ、インドラ。諦めずにここまで来てくれたことが、なによりも嬉しいよ」

「ひっ…く……でも、でも…」

「もしもね、契約を曲げてまでボクが助かったとしても、そのせいでレディ・ヴェヌシェが消えてしまったら、ボクよりもキミのほうが何倍もあとで苦しむと思う。キミはとても心の優しい子だ、他人の犠牲のもと得た幸せを、受け入れて生きていくことなんて出来ない。そしてボクも、一生十字架を背負った気分に苛まれながら、生きていくことになるだろう。それを耐えながら生きていく自信が、ボクにはない」

 そうなのだ。

 何事にも、犠牲と無関係でいられることはない。目に見えなくても、何かしら犠牲というものはついて回るのだから。

 レディ・ヴェヌシェに対して、ナイフを突き立てるわけでもなく、高いところから落とすようなことをするわけではない。けれど、アンジェリーンを連れ帰ることは、それと同等のことを、レディ・ヴェヌシェにするということ。

 目に見える残酷な行動をしなくても、契約を破ることで、レディ・ヴェヌシェの命を奪う行為。

 人殺しをしてしまう、ということだ。

 15歳のインドラには、到底踏み切れることではなかった。

 人を殺める勇気など、一生持てない。だからインドラは激しく混乱したのだ。それが痛いほどアンジェリーンにも伝わって、これ以上悩ませ、苦しませたくなかった。

 二人は別れを惜しむように抱き合っていたが、突然耳に聞こえたその声に吃驚して顔を上げた。

「レディ・ヴェヌシェ」

 低くてよく通るその声、メイズリーク伯爵がそこに立っていた。

「色々と私のことで騒がせてしまい、たいへん申し訳ない。ひとつ提案があるのだが、聞いていただけるだろうか?」

 その場に片膝をついた伯爵は、レディ・ヴェヌシェに恭しい態度で話しかける。そんな伯爵を見て、少し興味がわいたように口の端をつりあげた。

「申してみよ」

「アンジェリーンを諦め返してしまうことは、契約違反となります。ですが、契約を変更することは、破ることには当たらないと思うのです」

「ほほう?」

「報酬の内容を変更、つまり、アンジェリーンではなく、わたしめを貴女の報酬として受け取っていただく、というのは如何でしょうか?」

「父さん!?」

 インドラを腕に抱いたまま、アンジェリーンは驚いて伯爵のほうへ身を乗り出した。

「もう老齢に差し掛かっているわたしでは、貴女の添い寝には少々値しないようにも思えますが」

 伯爵はわずかに苦笑を口元にたたえ、レディ・ヴェヌシェに肩をすくめてみせた。

「破ってはならぬが、変更してはいけないとは、掟には無いのう」

 レディ・ヴェヌシェは面白そうに笑い声を上げた。

「わらわから見たら、そなたなど赤子に等しい」

 その言葉に、伯爵は破顔した。

「待ってくれ父さん!」

「はじめから、こうするべきだったんだ」

 笑みを浮かべたまま、伯爵はアンジェリーンに微笑みかけた。

「お前には、本当に済まないことをしてしまったと、この20年、ずっと後悔し続けていた。仕事にのめり込むことで、レディ・ヴェヌシェとの契約を忘れようとした。お前のことすら、居ないものと思い込もうとまでした。だが、インドラの勇気で目が覚めたのだ」

「伯爵様……」

「元はといえば、私が招いたことだ。自分の後始末を、息子へなすりつけようとした私が愚かだった。アンジェリーン、愚かな父の最後の願いだ。どうか、メイズリーク伯爵家のことを頼む」

 アンジェリーンは父親の顔を食い入るように見つめ、そして深く頷いた。それに満足して、伯爵はインドラにも微笑みかけた。

「養子縁組の件だが、白紙に戻させてもらったよ」

「え!?」

「そうじゃないと、兄妹で結婚するわけにはいかないだろう?」

 一拍を置いて、インドラはその意味を理解し、顔を真っ赤にした。その反応を見て伯爵はさらに笑みを深めた。

「どうか、そばでアンジェリーンを支えてやって欲しい。君のような優しくしっかりした娘なら、安心して息子を任せられる」

 伯爵は立ち上がると、レディ・ヴェヌシェの前まで進み、右腕を曲げて目の前に差し出した。

「そろそろお時間でしょう、参りましょう」

 レディ・ヴェヌシェは満足そうに笑みを浮かべ、伯爵の腕に手を絡ませた。

 部屋の奥へ歩いていく二人に、アンジェリーンは手を伸ばした。しかし、二人の姿がかき消え、そこはレディ・ヴェヌシェの城の部屋の中ではなく、エルド城の門の前だった。足元にはイザークが身体を伏せて眠っている。

 アンジェリーンもインドラも、しばらくは呆然と目の前の景色を見つめていたが、ふいにアンジェリーンが地面に崩れ落ちた。それに気づいて、インドラは身をかがめる。

「アンジェリーン……」

「最初から最後まで、立派に自分勝手な人だった。問答無用で生贄になれと言っておきながら、最後には言い返すまもなくこれさ」

 かける言葉が見つからず、インドラはそっとアンジェリーンに寄り添った。

「不思議だな。空は水色で、葉は緑色で、地面は薄い茶色だ」

 東の空から陽光が差し込み、辺りはいつの間にか朝を迎えていた。

「まるで、眠りから覚めたように、世界がいろんな色で満ちているよ」

「まあ、アンジェリーン」

 インドラの顔に、自然と柔らかな笑みがこぼれた。

 5歳からこの20年、灰色に見えていた世界に、ようやく色彩が戻ったアンジェリーン。長くかけられていた呪いが、解けたのだろう。

「これから100年生き抜く自信はないけど、ボクたちの子供が、孫が、100年後の父さんを迎えてくれるだろう」

 アンジェリーンは立ち上がると、インドラに手を差し伸べた。

 インドラはその手を取り立ち上がると、光がこぼれるような優しい笑みを、アンジェリーンに向けるのだった。

最終話:眠りの果てに得たもの おわり