【小説】眠りの果てに 第九話:夏至の夜・後編

眠りの果てに(完結)
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第九話:夏至の夜・後編

 胸がざわついて、ひどく落ち着かない気分を、以前経験したことがある。山へ入ったとき、はぐれた幼い弟が崖から落ちた。その時胸騒ぎがして、嫌な気配を感じる方へ向かって弟を見つけた。

 その時のことを思い出しながら、インドラは嫌な気配を感じる方へ向かって走った。

「アンジェリーン……」

 嫌な気配はどんどん強くなり、玄関ホールの階段の上に到達したとき、インドラは力の限り叫んだ。

「アンジェリーン!!」

 玄関扉を出ようとしていた女が歩みを止めた。そしてゆっくりと振り返り、階段上のインドラをまっすぐ見つめる。

「わらわの魔法が効かなかったのかえ?」

 アンジェリーンを抱きかかえた、異様な風体をしたその女を、インドラは訝しみながら見つめた。

 まるでサファイアのような真っ青な髪に、血の気を感じさせないほどの真っ白な肌。紫色のレースを複雑に絡ませた、袖の長い黒いドレス。唇に塗られた真紅の口紅が、異様に際立っていて気味が悪かった。

「あなたが眠れる魔女レディ・ヴェヌシェですね、アンジェリーンを返してください」

 レディ・ヴェヌシェが放つ気配に怖れを感じながらも、インドラは気丈にレディ・ヴェヌシェを見つめる。

「いかにも。じゃが、この者はわらわに与えられし報酬、返すわけにはいかぬ」

 感情がうかがい知れないほど淡々とした口調で言うと、腕に抱えたアンジェリーンの頬にそっと口付ける。

「アンジェリーンは物ではないのです。お願いします、どうか、連れて行かないでください!」

 懇願するように叫ぶと、インドラは階段を駆け下りた。

「思わぬ妨げが入ったのう」

 ややうんざりしたように言い、頭を軽く振った。すると、レディ・ヴェヌシェの長い長い髪の毛が、まるで地を這う根のように伸び、インドラに襲いかかった。

 今まさに階段をおりきったインドラの両足を、レディ・ヴェヌシェの髪の毛がぐるぐると巻き取り、その拍子にインドラは床へ尻餅をついた。

 髪の毛は両足首を揃えて巻き付き、どうやっても剥がすことができない。

「そこな娘、わらわは正当な報酬をもらいにきただけだえ。20年前伯爵と契約したとき、伯爵がこの者を差し出すと言ったのじゃ。のう、伯爵?」

 ハッとして階段を見上げると、沈痛な面持ちの伯爵がアンジェリーンを見つめている。

「伯爵様! アンジェリーンを返してくださるように、レディ・ヴェヌシェに言ってください!!」

 インドラは声を振り絞るように叫んだが、伯爵はふいにアンジェリーンから視線を逸らして、目を固く閉じてしまった。

「伯爵様お願いです!!」

「今宵、わらわはこの者と100年の眠りにつく。共に美しい夢を見るのじゃ」

「いや……いやです……アンジェリーンを連れて行かないで」

 歩けないインドラは、床を這いながら魔女に寄った。でも、何故かその距離は一向に縮まらず、むしろどんどん離れていく。

「好きなの、好きになったの。アンジェリーンが大好きなの、連れて行かないで」

 涙を流しながら魔女に訴えたが、レディ・ヴェヌシェは冷たい一瞥を投げかけ、もうインドラを見ようとはしなかった。そして、激しい風が玄関から城の中へ吹き込み、レディ・ヴェヌシェとアンジェリーンの姿は忽然と消えてしまっていた。

「うそ……」

 もうインドラを束縛していた魔女の髪の毛は消えている。でも、インドラは床に突っ伏したまま、固く握った拳を冷たい床に何度も叩きつけた。悔し涙が後から後から流れて、床にぽたぽたと落ちていく。

 暫くそうして泣いていたが、階段上からドサッという音が聞こえて、インドラは顔を上げた。

「伯爵様…!?」

 涙で曇った目をこすって階段上を見上げると、伯爵がその場に崩れるようにして座り込んでいた。

 驚いたインドラは立ち上がると、慌てて階段を駆け上り、伯爵の傍らに座り込んだ。

「大丈夫ですか?」

 インドラの呼びかけにも反応せず、伯爵は放心状態で、焦点の定まらない目をしている。

 やがて、

「私はなんてことをしたんだ……」

 誰に言うともなく、力のない声でつぶやき始めた。

「わた、私はアンジェを、アンジェを」

「伯爵様、どうか教えてください。レディ・ヴェヌシェの住処はどこにあるのですか?」

 揺さぶっても覗き込んでも、伯爵はインドラの言葉には反応しなかった。

 ――自責の念でいっぱいなのだわ。

 アンジェリーンが連れて行かれることになったのは、全て伯爵の責任だ。しかし、20年前、レディ・ヴェヌシェに救いを求め、どんな気持ちで息子を差し出すと言ったのか。当時の伯爵を知らないインドラには、そのことは判らない。それほど追い詰められていたのかと思うと、憐憫の情くらいは沸く。

 ――でもわたしは、アンジェリーンを助けるの。連れて行かせないと誓ったのに、それが果たせなかった。だから、助けに行くわ!

 インドラは心の中で強く決意を固めると、もう一度伯爵に呼びかけた。

「わたしが必ずアンジェリーンを助けてきます。どうか、お心を強く持って、待っていてくださいましね」

 インドラは脱げていたガウンを拾い上げ、袖を通した。――着替えている時間はない、このまま魔女の元へ向かう。

 再び階段を降りたところに、イザークが尻尾を振って待っていた。

「まあ、イザーク」

 インドラが驚いて腰をかがめると、

「ワンッ!!」

 力強くイザークが吠えた。

「一緒にアンジェリーンを助けに行ってくれるのね?」

 もう一度イザークは吠えた。凛とした黒い瞳で、しっかりとインドラを見上げてくる。そのイザークの瞳を見つめ、インドラも力強く頷いた。

「行きましょうイザーク。魔女を追いかけましょう」

 インドラとイザークは、城の外に駆け出した。

第九話:夏至の夜・後編 つづく