第五話:優しい森の中で
パヴリーナとアネシュカに支えられ、慰められながら自室に戻ると、インドラはベッドに崩れるようにして伏して泣き出してしまった。
たくさん練習をしたというのに、いざ伯爵と対面すると、緊張のあまり頭が真っ白になってしまったのだ。
「きちんとご挨拶、できなかった…」
伯爵に会ったら、まずお礼を言いたかった。
家族に払ってくれた沢山の金貨、自分がそれに見合うだけの価値があるとは到底思えない。この城にくるまで字も読めない子供だったのだ。あの金貨で家族は一生食うに困らないだろうし、贅沢だって出来る。そして、空腹に耐える貧困の中から連れ出し、この城で貴族の令嬢のように扱ってもらい、色々なことを学ぶ仕事を与えてくれた。勉強も行儀作法もまだまだスタートラインに立ったばかりだが、毎日充実してとても楽しい。
貧しい人々はたくさんいる。その中で自分を見出し、素晴らしい機会を与えてくれたことを、伯爵に感謝し、そのことを伝えたい。伯爵に会える日を待ち望みながら、ずっと心の中に抱き続けていたことだったのに。
「初めから、ちゃんとできるひとはいませんよ」
インドラの傍らに座り、頭を優しく撫でながらパヴリーナが慰める。
「伯爵の前に立てただけでも、立派でございましたよ」
アネシュカもいたわるように言う。
パヴリーナもアネシュカも、普段のインドラを見ているので、まさかの失敗に軽い驚きを禁じ得なかった。飲み込みも早く、教えたことはきちんとこなしている子なのに。
二人は失念しているが、インドラは数週間前まで貧しい木こりの家の子供だった。それが貴族の城にきて、大急ぎで行儀作法などを教え込まれて、伯爵の前に出されたのだ。
15歳の少女にとって、それはとてつもなく大変なことなのだから。
少しそっとしておこうということになり、パヴリーナとアネシュカは部屋を出て行った。
一人になったインドラは暫く泣き続けていたが、やがて泣くことに疲れてベッドに座り直した。
気持ちが落ち着いてくると、足元からだんだんと不安が這い上ってきた。
先ほどのことで伯爵様のご機嫌を損ねて、家族から金貨を取り上げ、自分は城を追い出されてしまうのではないか。そのくらいの失礼をしてしまったのではと、とても怖くなった。
「どうしましょう、わたし、どうしたら……」
急に落ち着かない気分になり、部屋の中をウロウロ歩き回る。それでも落ち着かず、インドラは部屋を出た。
城の中を歩き回り、やがて庭へ彷徨いでた。
外はすっかり陽が落ちて世界は暗かったが、大きな欠けた月から溢れる光が、庭を柔らかく照らし出していた。
庭は花より木々が多く、小さな森のようになっている。まるで故郷にある森を彷彿とさせ、インドラは懐かしい気持ちになり、少しだけ心が落ち着いてきた。
庭の森に入り込み、あてどなく歩いていると、開けた場所に小さな白亜の四阿が建っていた。
生い茂る木々の隙間から、優しい月明かりが白亜の四阿を照らし、幻想的な光を放っている。暗い森の中なのに、そこだけが青緑色のうっすらと明るい空間を作り出していた。
引き寄せられるように四阿に近づくと、そこに思わぬ人物を見つけてインドラは驚いた。
アンジェリーンである。
最初にインドラに気づいたのは、彼の足元に身を伏せていたグレート・デーンだ。
尖った耳をピクピクと動かし、くるりと首を巡らせインドラを見る。その様子に気づいたアンジェリーンが、閉じていた目を開いてインドラに向けた。
「インドラ…?」
不思議そうに名を呟かれ、インドラはサッと頬が熱くなるのを感じた。そして、名を呼ばれただけで急に胸がドキドキしだした。
「あ、あの、起こしてしまってごめんなさい」
慌てたように言う声は上ずり、どうしていいか判らずその場に立ちすくした。
アンジェリーンは立ち上がると、インドラの前まできて、胸の前で不安げに組み合わせている手をとり、四阿まで引っ張っていった。伏せていたグレート・デーンが、二人のために場所を譲る。
それまで自分が座っていた場所にインドラを座らせ、アンジェリーンは近くの柱に背中をあずけた。
「どうしたんだ? こんな時間にこのような場所まで、一人きりでくるなんて」
咎めるような音を含んだ声に、インドラの心から急にドキドキが抜けて、たよりなくしぼんでしまった。
「気持ちを落ち着かせようと思って、その……歩いていたら、ここまできてしまいました」
すっかり落ち込んでいる様子に、昼間の伯爵との対面がうまくできなかった話を、パヴリーナから聞いていたことを思い出した。
「気にするな」
「え?」
「伯爵は誰に対しても態度が冷たい。上手に挨拶できなかったからといって、子供を責めるほど器量の狭い男じゃないさ」
肩をすくめながらアンジェリーンが言うと、インドラは表情を曇らせたままアンジェリーンを見上げた。
「でも、先生からたくさん挨拶の作法や色々なことを教わったのに、伯爵様に何一つ成果を見せることもできなくて。ガッカリなさったでしょうし、先生にお咎めがあったら申し訳なく思います…」
それに、とインドラは両手を組み合わせて口元に当てる。
「家族からお金を取り上げ、わたしは城から追い出されてしまうのではないかしら。そうなったら、家族にまたひもじい思いを味わわせてしまう。わたしはかまわないけれど、両親や弟妹たちを、もうそんな辛い生活には戻したくない」
きちんとできなかった自分だけが、罰を受ければいい。家族にはどうか、お咎めを向けないで欲しい。インドラは祈るような気持ちで呟いた。
アンジェリーンはもたれていた柱から離れると、インドラの足元に膝まづいて彼女を見上げた。
「笑顔を見せろ」
小さく「え?」と言って、インドラは目を瞬かせた。
「ボクはきみの笑顔を殆ど見ていない。緊張したり沈んだり、生真面目だったり余裕がなかったり、そんな表情ばっかりだ」
悔しそうに言うその表情は、どこか少年のように拗ねている。
「本気できみを追い出す気があるなら、対面の時にとっくにやっている。伯爵はそういう男だ。だから、きみは笑顔でいればいい」
「……ほんとうに? ほんとうに大丈夫?」
「ああ」
アンジェリーンは力強く頷いた。
「クゥ~ン」
それまでずっと黙っていたグレート・デーンが、アンジェリーンをからかうように鼻を鳴らした。
「なんだいイザーク」
「イザーク?」
「こいつの名前さ」
アンジェリーンはイザークの首に手を回し、ガシガシと頭を撫で回してやる。イザークのほうは迷惑そうに全身をブルブルと激しく振って、面白がるアンジェリーンから離れた。
「つれないな。――イザークはこの庭の森の番人、そしてこの四阿はイザークの家なんだ」
「まあ、そうなの」
インドラは柔らかく微笑みながら、イザークの頭にそっと手を乗せた。
「ご挨拶もしないで、勝手に上がり込んでしまってごめんなさいね。わたしはインドラというの、よろしくねイザーク」
イザークは嬉しそうにクンクン鼻を鳴らし、軽快に尻尾を振り回して歓迎の意をあらわした。
こんなふうに、自然と伯爵に挨拶できるようになりたい。微笑みながら感謝を込めて、お礼を述べたい。
――今日は失敗してしまったけれど、次の機会には堂々と挨拶できるように頑張ろう。
月明かりが照らす優しい森の中で、アンジェリーンとイザークに慰め励まされながら、インドラの心は穏やかな光で満たされていった。
-つづく-