第拾話:光と闇の精霊
インドラとイザークは、月と星明かりだけを頼りに走る。
ゴロゴロした小石が多く、歩きにくい道を走り、天空の明かりさえも遮るほどの鬱蒼とした森の中も、迷わず突き進んだ。
眠れる魔女レディ・ヴェヌシェのあとを、ふたりは追っている。
今夜のうちに魔女の住処にたどり着かないと、全てが手遅れになってしまう。そうならないためにも、夜道を怖がってはいられない。
幼い時から森や山を歩き回っていたインドラは、こんな暗い夜道でも、しっかりとした足取りで走ることができた。
イザークがアンジェリーンの匂いを辿り、インドラを魔女の元へと導いてくれている。
「今度は、必ず助けますからね、アンジェリーン」
自らを奮い立たせるように呟くと、前を走るイザークが、突然足を止めたので首をかしげた。
「どうしたの? イザーク」
耳をピンッと立て、低い唸り声を前方に向けて放っている。イザークの全身から険しい気配を感じ、インドラは息を飲んだ。すると、突然強い風が前方から吹き付けた。驚いたインドラは、目を閉じ咄嗟に腕で顔を覆う。風に逆巻かれたガウンに引っ張られ、その拍子に後ろに倒れそうになって踏ん張った。
風が落ち着いて恐る恐る目を開けると、あたりの様子にインドラはギョッとした。
濃紺の夜空を淡く彩っていた月や星も見えず、暗闇に浮かんでいた木々のシルエットもなく、真っ暗な闇にすっぽりと包み込まれていた。唯一の救いは、そんな真っ暗な中でもイザークの頼もしい姿が、くっきりと見えていることだった。
「一体どうしたのでしょう……」
不安げに肩をすぼませ、手を胸の前で組み合わせていると、妖艶な笑い声が闇の中に響き渡った。
「聖なる夏至の夜に、古の魔女の元へ向かうお前、なんの真似なんだい?」
姿なき声が、咎めるようにインドラに問いかける。
「わたしの大切な人が連れ去られてしまいました。魔女の下へ赴いて、返してくださるよう、お願いをしに行きます」
途端、ケタケタと妖艶な声が笑う。
「レディ・ヴェヌシェはメイズリーク伯爵と正式に契約をして、報酬にアンジェリーンを受け取っただけじゃないか。それなのに何故、返さなくちゃいけないの?」
「それは……それは判っています。でも、アンジェリーンの心を無視して、勝手にやり取りしていいわけがありません。彼は物ではないのです」
何もわからない子供の頃に、勝手に魔女への生贄になると、実の父親に言われて生きてきたアンジェリーン。どれほど絶望と悲しみに心を痛めただろう。
「文句は父親の伯爵に言えばいいのさ。レディ・ヴェヌシェは約束を守ったんだから、お前が出てきて責め立てるのは筋違いだ」
やがて、インドラの目の前の闇がゆらゆらと揺らぎ、それは次第に大人の女の姿に固まっていった。
真っ暗な中に青白く浮かび上がる白い顔。美しいがどこか不気味で、首から胸元までが同様に白い。思わずといったようにイザークが吠え立てた。
闇をはめこんだような真っ黒な瞳が、じっとインドラを見据える。
「レディ・ヴェヌシェの報酬に、惚れたお前が悪いのさ」
鮮やかなマニキュアに塗られた長い爪が、インドラを責めるように指す。
たしかに、目の前の女の言うとおりなのだ。
20年も前に取り決めたこと、レディ・ヴェヌシェは約束を守り伯爵家を助けた。自分は最近伯爵家に関わりだしただけの新参者。
けれど、自分の運命を弄ばれたアンジェリーンが、唯一希望を見出したのがインドラだ。
ほんの少しでも一緒にいたいと望んだインドラに、アンジェリーンは救いの望みを抱かなかったのだろうか。きっと、無意識に境遇を変えたいと望んでいたのではないのか。だからインドラを伯爵家に招いた。
「お前がどう思おうと、アンジェリーンはレディ・ヴェヌシェの物。悪あがきはみっともないから、およし!」
女はピシャリと言った。でもインドラは怯まなかった。
闇を見つめながら、インドラは思う。
真実を知ったあの日から、毎日考えた。アンジェリーンにもレディ・ヴェヌシェにも、納得のいく形でおさめることはできないかと。
もしアンジェリーンを諦めてもらえたとしても、別の誰かが犠牲になる。他者を犠牲にして、それでこの先アンジェリーンは気持ちよく生きていけるのだろうか?
それは絶対無理だ。
ならば、眠るときのお伴を止めてもらうことは可能だろうか?
それもきっと無理だろう。
どんな風に考えても、どちらかが不幸な結末になってしまうのだ。
今も答えは見つからない。けれど、これだけはハッキリと決まっている。
「みっともなくてもいい、わがままだと言われてもかまいません。わたしは、アンジェリーンを必ず助けます」
イザークも呼応するように力強く吠えた。
女は忌々しげに舌打ちし、インドラとイザークを睨みつけた。その時、突然闇の中に眩いばかりの光が差し込んで、一瞬であたり一面を光で塗り替えてしまった。
「うふふ、イヴォナ、あなたの負けね」
明るく感じのいい笑い声が光の中に漂う。光の中でもくっきりとした闇色の髪とドレスをまとった女――イヴォナは、隣に顔を向けて、わなわなと唇を震わせた。
「私は負けてなどいない!」
「ダメよ、あなたが何を言っても、このお嬢さんの決意は変わらないのだから」
光がキラキラと瞬き、やがてプラチナのように輝く髪と白い肌、髪と同様に輝く白いドレスをまとった女が姿を現した。
「あたくしは光の精霊リリアナ、こちらは闇の精霊イヴォナ。あたくしたちは共にレディ・ヴェヌシェにお仕えする精霊です」
にっこりと輝く笑みを向けられて、インドラは眩しそうに頷いた。
「レディ・ヴェヌシェに肩入れすれば、アンジェリーンは戻らない。アンジェリーンを最優先すれば、誰かが犠牲になる。あなたは究極の二択を迫られているわね」
「はい……」
「でも、あなたの心は、もう答えを出しているわ。あたくしには、どちらが正しいかは判らない。けど、迷いはレディ・ヴェヌシェの怒りを買うことになるの。彼女の元にたどり着くまでに、心をしっかり固めなさい」
「はい!」
インドラが決意を込め返事をすると、リリアナは優しく微笑んだ。
「さあ、進みなさい。この道はレディ・ヴェヌシェの城へと続いているわ」
スッと細い指で、リリアナは後方を指さした。イヴォナも仕方なくといった様子で道を示した。
光の奥へ続いていく道。その先に浮かび上がる大きな城のシルエット。
――あそこにアンジェリーンがいる!
リリアナとイヴォナが指し示す道へ、インドラとイザークは踏み出した。
第拾話:光と闇の精霊 つづく