
両親の都合で引き離されてしまった姉弟の、せつない物語です。
【短編】姉弟

――夏海は嬉しかった。あまりにも嬉しくて、笑顔の弟の手を取った。
夕食の支度のために、洗いたての白いエプロンを制服の上に着ける。部活動が長引いて、急がないと夕食の時間に間に合わない。
そのとき、お勝手口の扉が少し開いて、悪戯っぽい笑みを浮かべた少年が顔を覗かせた。
「えっ!?」と声を上げそうになり、夏海は慌てて口を両手で塞ぐ。
春になって陽が伸びたので、夕方なのに外は柔らかく明るい。そのかわり台所の中は闇を次第に濃くしていった。
少し開かれた扉から、外の明かりが細い線になり台所に差し込む。同時に、少年の影も長く伸びて台所の暗さに同化した。
「遊びにきちゃった」
少年はにっかり笑うと、真っ白な歯を浮き上がらせた。
驚きの表情を貼り付けていた夏海の顔が、次第に笑顔に塗り変わっていく。
「弘也」
夏海は小走りにお勝手口に駆け寄り、手近に置かれていた袋を取ると、サンダルをつっかけた。そして弘也の手を取る。
「おいで」
弘也の手を引いて、夏海は駆け出した。
自分の家の裏と隣家の間には、大人がやっと一人通れるくらいの細い路地がある。両側を塀で囲まれているので、路地は薄暗い。
夏海はその場にしゃがみこむ。弘也も夏海と向き合ってしゃがみこんだ。
「元気だった? 弘也」
「一応は。でもやっぱり姉さんがいないと寂しい」
弟の言葉に夏海は表情を僅かに曇らせる。
「ちょっと遠かったけど、どうしても姉さんに会いたくてきちゃった」
へへへっと笑う弘也の表情には屈託がない。思い立ったらすぐ行動、が弘也の性分だった。それが判っているから夏海は苦笑してしまう。
「姉さんなに持ってきたの?」
弟に聞かれて、夏海は手にしていた袋を見る。
「海苔?」
「やだわたし、おせんべいの袋を持ってきたつもりで海苔持ってきちゃってる」
「そそっかしーの」
「言わないのっ!」
顔を真っ赤にした夏海は、軽く握った拳で弟の頭を小突く。
「すぐ手をあげるー、かわってねーの」
文句とは裏腹に、小突かれたことが嬉しいように弘也は笑った。
姉の注意を引きたくて、弘也がつまらない悪戯をしていたことが、昨日のことのように脳裏に浮かぶ。とても切ない思いが心を掠めていった。
「せっかく持ってきちゃったし食べようか」
夏海は袋からまだ湿気ていない海苔を取り出すと、折り目にそって2枚に分ける。
「はい」
「サンキュ」
弘也が海苔を受け取った、そのときだった。
薄暗い路地に、さらに影が落ちた。その影の正体を見上げると、夏海は表情を強ばらせた。
仕立てのいいスーツに、整った髪、表情が上手く読み取れないようサングラスをしている。ぱっと見た感じは中年と呼ぶにはまだ早い青年が、そこに立っていた。
夏海の表情に気づいて、弘也は背後を振り返る。
青年はゆっくりと慇懃に礼をした。
弘也は僅かに怒りの色を滲ませたが、目を閉じて口の端を噛む。そして立ち上がると、両脇で拳を握った。
無言で踵を返す。
「あ…」
夏海は慌てて立ち上がったが、僅かな立ちくらみに一瞬視界が霞む。塀にもたれかかり顔を上げたが、弘也はすでに路地の曲がり角を過ぎてしまっていた。
「弘也…」
小走りに駆け出し弟のあとを追う。だが、路地を曲がった頃には、弘也の姿は大きな黒い車の中に滑り込んでいた。
扉を閉めた青年は、夏海に向けて丁寧に一礼すると、運転席に乗り込み車は走り出してしまった。
涙が浮かび、頬を滑り落ちた。
3年前に両親が離婚し、夏海は父親とそのまま家に残り、弘也は母親と共に家を出た。すぐに母親は別の男性と再婚し、弘也は別の町へ移った。
母親の再婚相手は、資産家とか企業のトップだとも聞いていた。町工場の職人の妻から上流階級の妻に成り上がった母親は、弘也が夏海と会うことに反対していた。
母親にも立場というものがある。そう自分に言い聞かせていた夏海だったが、弘也はお構いなしに家を抜け出しては夏海に会いに来ていた。
そして決まってあの青年が迎えに来て、弘也は連れて行かれる。本来の居場所へと。
――たった2人の姉弟なのに。
そう思うと、更に涙が溢れ出し、夏海は両手で顔を覆い号泣した。
-おわり-
初出:2014/03/18
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